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台湾の歓び [著]四方田犬彦

[評者]原武史(放送大学教授・政治思想史)

[掲載]2015年03月08日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■自由を最大限与えてくれた土地

 還暦になったとき、四方田犬彦は一つの決断をした。大学を辞め、日本から、いや国家そのものからしばらく離れることである。そして向かったのは、日本や米国や中国が正式の国交を結ぼうとせず、国家として認めていない台湾という地域であった。
 もちろん、完全なフリーになったわけではない。台湾の大学や研究所で映画史を講義する客員教授という肩書はついていた。しかし、永遠の旅人と呼ぶべき著者の足は勝手に動き出し、滞在していた台北や台南の市街を歩き回る。あるいは自転車に乗り、徒歩では行けないところまでくまなく回ってしまう。還暦を過ぎてなお少しも衰えない知力と体力と好奇心に、ただただ圧倒される。
 このような著者の本領が最も発揮されているのが、第二部の「黒い女神を求めて」である。海の女神で、航海の守護神でもある媽祖(マーツ)をまつる廟(びょう)が台湾に多いばかりか、媽祖が民衆にあつく信仰されていることに気づいた著者は、毎年春に台湾中部の大甲から新港まで、媽祖像を乗せた大轎(みこし)とともに人々が巡礼の旅を行う進香という儀礼に参加した。数日間ほとんど不眠不休のまま歩き続けるなかで見えてきたのは、世俗的な時空から離脱し、個人性が棄却された恍惚(こうこつ)感のなかで、あたかも媽祖と一体になったかのような境地であった。
 媽祖信仰は、台湾ばかりか中国大陸や沖縄、九州などにも広く分布している。ここには東アジアの民俗の「地下水脈」が流れているという鋭い直感が、旺盛な行動へと駆り立てる原動力になっているように思われた。
 四方田犬彦は群れない。学界の権威にもボスにもなりはしない。その徹底した生き方が、本書の伸びやかな文章を支えている。『台湾の歓(よろこ)び』の「歓び」とは、何よりもこうした自由を最大限与えてくれた土地に対してこそ向けられた言葉なのだろう。
    ◇
 岩波書店・3456円/よもた・いぬひこ 53年生まれ。映像と文学を中心に文化現象を考察。『アジア全方位』など。

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