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素晴らしきソリボ [著]パトリック・シャモワゾー

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2015年03月15日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■違和感こそクレオールの醍醐味

 「語り部ソリボ・マニフィークは言葉に喉(のど)を掻(か)き裂かれて死んだ」と冒頭にある本作は、作者のデビュー間もない80年代後半に書かれた。つまり、のちにクレオール文学と呼ばれる潮流の始まりに。
 クレオール文学とはクレオール語で書かれた小説、詩。そしてクレオール語とは一般に、植民地化された地域の民が宗主国の言語を強いられ、現地語との混交によって生み出した別種の言語のことである。奪われた者が奪い返す、と言ってもいい。
 ただそれは見事な奪還というわけではない。複雑な状況の中での妥協でもあり、喪失の余韻でもあるのだから。
 本書においても、「語り部」はまず死ぬ。そして死んだあとで書き手によって文字で人生を再現される。果たしてそれは歌われ、踊られ、語られていた言語より豊かな実りだろうか。豊かでないとしたら、なぜ書くのか。
 舞台はアンティル諸島のマルティニークだが、「言文一致」が何を得て何を失うかという主題で言えば、これは世界全体の問題である。まして主人公のクレオール語にも正式なそれと方言が混ざり合うとすれば、発話は階級間の生々しい政治的ふるまいだ。
 ただ、カリブ海では辛気臭い追究はしない。スラップスティックな暴力、明るい嘆き、意味不明な音、虫、酒などを伴いながら、死んだ語り手ソリボの物語は書記される。
 その時、語りの痕跡は洒落(しゃれ)という多言語の重なりや、歌になる。つまり、訳せない領域にある語りを書き手は文字に訳し、その文を翻訳者がさらに訳すことになる。
 その訳出の違和感こそがクレオール文学の醍醐味(だいごみ)だろう。音を文字で書き取ることが本来は不可能であること、書くことは常に何かを殺す切ない行為だと、翻訳が思い出させる。その認識のために、書くことに意味がある。
 クレオール文学は良き翻訳の場に現れる。
    ◇
 関口涼子、パトリック・オノレ訳、河出書房新社・2376円/Patrick Chamoiseau 仏海外県マルティニーク出身。

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