書評・最新書評

火花 [著]又吉直樹

[評者]宮沢章夫(劇作家・演出家)

[掲載]2015年04月05日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■苦しむ漫才師が苦悩を相対化

 これは、若いミュージシャンの話であってもまったく違和感がない。美術家でもいい。小劇場の俳優でもいい。
 それでもなお、漫才師の話でなければならなかったのは、そうでなければ小説にならないからだ。
 べつの言い方をするなら、それをどう必然とするかについて書かれた小説だ。小説の役割には、書かれる素材やテーマを、いま語るにふさわしいと納得させるための技術を、そうであると示すことがあるように思える。主人公の徳永は、まだ売れない漫才師だ。熱海の花火大会のイベントの仕事で、のちに師匠と仰ぐことになる同じ漫才師の神谷と出会う。神谷は破滅型の芸人だ。徳永は、自分にないそうした破滅型の人間を、ときに憧れ、ときに冷ややかに見つめつつ、芸人としての自分を考える。かつてなら、苦悩という言葉で語られるものだったはずだが、それに有効性があるだろうか。先にあげた美術家や俳優をはじめ、芸術家がいくら苦悩したところで、いまでは笑い話にしかならない。作者は現在を生きる者として、苦悩や懊悩(おうのう)を芸人という器に入れ、そうすることによってようやく、語りは小説であることを許された。なぜなら漫才師の苦しみなど誰も理解しようと思わないからで、苦悩は異化され、それは笑いに転化する。いくつかの場面でわたしは笑ったが、言葉の面白さというより苦しむ漫才師の姿が愚かだからだ。苦悩する彼ら自身が苦悩を相対化する。漫才師はトリックスターとして出現する。後半、笑いをつきつめるあまり、異形へと自分を追いつめる神谷の姿は、かつて読んだことのある芸人小説にも通じるが、それもまた、現在的に書かれるのは、芸人の持つ、ほんとうの姿としての暗さもまた対象化されるからだ。
 そのように書かざるをえなかった。作者のなかにある、表現することへの含羞(がんしゅう)だ。
    ◇
 文芸春秋・1296円/またよし・なおき 80年生まれ。お笑い芸人。著書に『第2図書係補佐』『東京百景』など。

関連記事

ページトップへ戻る