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雨の裾 [著]古井由吉

[評者]蜂飼耳(詩人・作家)

[掲載]2015年07月19日

[ジャンル]人文

表紙画像

■老いの時間に渦巻く死と官能

 古井由吉はこれまでも、夢と現(うつつ)の境、過去と現在の境を踏みこえる小説を書いてきた。その世界は、揺らぐ幻の像と確固とした質感を併せ持ち、独自の展開を見せる。『雨の裾』はいよいよ極まろうとする著者の方法と持ち味が、前人未到の境地をかいま見せる小説。老いの時間に渦巻く死と官能の色合いを、ここまでこまやかに炙(あぶ)り出した小説があっただろうか。
 冒頭の「躁がしい徒然」はタイトルも粋だが、「ある境を越すとしばらくは自分から、空足でも踏んだように前のめりに、上機嫌に年を取っていく」という一文など、著者らしい観察で、心動かされる。重いものは軽く、軽いものはむしろ持ち重りのする手触りで、著者は扱う。
 老いと病、入院などで時間の感覚の変わる感じが、繰り返し描かれる。「我に返るとは、我身の内の死者の時間に、さかのぼって感じる境のことか。これからも幾度となく我に返って覚めた心地がしてはまた紛れて、年を取っていくのだろうと思った」
 我とは誰か、どこにいるのか。日常の輪郭がほどけて、途方に暮れて立ちつくす時間。その匂いと色合いを、描き切る著者の文章。それは、他の言葉では描かれたものが必ず別物になってしまう、という深い認識から、決して逸(そ)れることなく進む。
 表題作は、死の床につく母とその息子である男を描く。男には、母が死病を得てから関係の出来た女がいる。頼まぬうちから入院先へ赴いて母の世話をする女。「人は自分の行為の、ほんとうの由来は知らない」「あなたとのことは、後悔しません」
 因果と呼ぶほかない関係を、眺める眼差(まなざ)しの先にひろがる、死の静けさ。洗練された穏やかさの底にぞっとさせる妙味を潜める文章が、生と死を渾然(こんぜん)一体のものとして浮かび上がらせる。読めば読むほど、どこともつかぬ気の遠くなる境へ引かれていく。
    ◇
 講談社・1836円/ふるい・よしきち 37年生まれ。71年「杳子」で芥川賞。近著に『半自叙伝』『鐘の渡り』など。

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