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ぐにゃり東京―アンダークラスの漂流地図 [著]平井玄

[評者]武田徹(評論家・ジャーナリスト)

[掲載]2015年11月01日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■2度目の五輪、尊厳なき社会で

 「空も水も詩もない日本橋」。1964年の五輪に向けて都市改造が進むなかで、川の水は黒く淀(よど)み、上空を首都高速道路に覆われてしまった橋のことを開高健はそう書いた。
 そんな名作ルポ『ずばり東京』から約半世紀。本書は2度目の五輪を迎える東京を描く。埼玉県境に近い駅からその日の「現場」に向かう著者の頭上を覆う首都高速は「頭が三つある巨大な竜がのたう」つ三段重ねとなり、道の下を流れる「コーヒー牛乳色の長い溜(た)め池」のごとき川には「これ以上錆(さ)びたくても錆びられないような鋼材が延々と打ち込まれ」続けている。
 そして殺風景なのは今や景観だけではない。指定された場所に集まったのは著者と同じく校正バイトで食いつなぐ面々。作業の合間に交わす言葉は彼らがなかなかのインテリであることを示すが、その教養が一切の商品価値を持たなかった事実も彼らの非正規人生に明らかなのだ。
 著者は「冷蔵庫の下に逃げるゴキブリ」のように校正ゲラの下に潜り込み、あたりの様子をうかがい続ける。3K職場だった印刷所も、経済成長とバブルを経てセキュリティー対策万全のこぎれいなハイテク工場となった。そこでインクにまみれることなくパソコンを操作するオペレーターたちの多くも実は校正バイトと大差ない派遣や契約社員なのだが、言葉をかけてみれば自分の方を向く監視カメラに気づいている。だが気づいている自分に気づかないようにして「平常心」を保とうとしてもいる。それが「成熟した格差社会」の心象風景なのだ。
 北風の厳しさよりも太陽の温(ぬく)もりを装って「尊厳」という外套(がいとう)を少しずつ脱がしてゆく、そんな時代と社会の「ぐにゃり」と捉えどころのない輪郭を描くには、地を這(は)う虫の目線から見上げる険しい角度が必要だった。それを実践を通じて示した比類なきルポ作品だといえよう。
    ◇
 現代書館・2376円/ひらい・げん 52年生まれ。批評家、エッセイスト。著書に『愛と憎しみの新宿』など。


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