書評・最新書評

電気は誰のものか [著]田中聡 核の誘惑 [著]中尾麻伊香

[評者]佐倉統(東京大学大学院情報学環長・科学技術社会論)

[掲載]2015年11月15日

[ジャンル]科学・生物 社会

表紙画像

■巻き込む魔性の力、夢と理想の裏面史

 電気はあって当たり前。今の日本なら誰もがそう思う。そして電力事業者は、そういう社会を目立たないところで支える役回りを演じている。だが、事態はもっと複雑で生々しいものだということを、田中聡は気づかせてくれる。電力事業者は地味にインフラを担っているだけの存在ではなかった。20世紀になって電気が日本で「当たり前」になる前は、電気を通してやるから言うことをきけとばかりに威張って庶民を見下し、やくざまがいの闘争と恫喝(どうかつ)を繰り返していたのである。
 考えてみれば当然のことだ。売り手市場であれば供給側が主導権を握る。まして、電気は近代化のシンボルである。村に煌々(こうこう)とともる電灯は新時代の息吹を感じさせる憧れであり、羨望(せんぼう)の的であった。わが村がそうなれるかどうかは、すべて電力会社が電気を通してくれるかどうかにかかっている。そんな状況だから、富山県では電力供給を公営化しようとする自治体と電力会社との血みどろの「電灯争議」が続き、長野県では村民みんなの取り決めを抜け駆けしてひとり電灯をつけた家が焼き討(う)ちにあう。電気は、共同体を分断し、人々を争いに巻き込んでいく。魔性の力(フォース)。
 電灯が普及し始めたころ、それは羨望の的である一方で、得たいの知れない、怪しげなものでもあった。原子力も、同じ両義性をもつ。日本の社会が「核」をどのようにイメージし、受け入れ、そこに「夢」を見てきたのか、中尾麻伊香は史料を駆使し、柔軟な発想力と鋭い共感力を全開にして、社会の深層を掘り起こしてくれた。
 ラジウム温泉や、仁科芳雄らが開発を進めていたサイクロトロンなど、「核」の周辺には、近代科学技術へのあこがれと伝統文化への回帰、双方のベクトルが常に絡み合って複雑に共存している。日本と日本人にとって、「核」は理想の社会を実現する魔法の道具だったのだ。そして、科学者とマスメディアと一般大衆が三位一体となって、その「原子力ユートピア」のイメージを作りあげてきたのである。
 一方で、詩人の萩原朔太郎がその向こうに病や恐怖を見て取っていたように、「核」の負の側面を感じ取る「原子力ディストピア」も、並行して存在していたのではないかと思われる。戦後の原発反対運動もその系譜につながるのかもしれない。このあたりは、もう少し分析してほしかった。
 こうしてみると、福島原発事故は、電気と「核」、それぞれが日本の社会に溜(た)めてきた澱(おり)を噴出させてしまったようである。戦後の経済成長による封印を解いてしまったのかもしれない。歴史を知ることの重要さを、改めて教えてくれる二冊である。
    ◇
 『電気は…』晶文社・2052円/たなか・さとし 62年生まれ。ノンフィクションライター。著書に『美しき天然』『不安定だから強い』など▽『核の誘惑』勁草書房・4104円/なかお・まいか 82年生まれ。立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員。

関連記事

ページトップへ戻る