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福沢諭吉の朝鮮―日朝清関係のなかの「脱亜」 [著]月脚達彦

[評者]柄谷行人(哲学者)

[掲載]2015年11月29日

[ジャンル]歴史

表紙画像

■「義侠心」から揺れ動いた脱亜論

 福沢諭吉は「脱亜論」(1885年)で、「我(わ)れは心に於(おい)て亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶するものなり」と書いた。それまで福沢は、朝鮮の改革を目指し、西洋列強に抗して日本を盟主とするアジア同盟を構築することを唱えていたが、それを否定したのである。彼がそう書いたのは、朝鮮に起こった甲申(こうしん)政変(1884年)、つまり、親日派の金玉均(キムオクキュン)らがソウルで日本公使と結んでおこしたクーデターが失敗した後である。そこで、「脱亜論」を福沢の敗北宣言と見なす考えが定説となった。ただ、それ以後、福沢が日本の帝国主義的な方向を肯定したという批判と、福沢を擁護しその可能性を見いだそうとする論が争われてきた。
 しかし、著者の考えでは、「脱亜論」をふくめて、福沢の論文とされているのは「時事新報」の論説であり、刻々と変化する状況に対応して書かれたものだ。「脱亜論」が同時代で注目されなかったのもそのためである。本書は、朝鮮近代史の状況を見直すことによって、福沢の考えを再検討するものである。
 著者の結論はつぎのようなものだ。福沢は洋学者として、もともと「脱亜論」の立場であった。朝鮮についても無知・無関心であった。彼が急に関心を抱くようになったのは、1880年に初めて朝鮮人と出会い、翌年、慶応義塾に留学生を受け入れてからだ。彼の朝鮮への関心は「義侠(ぎきょう)心」からである。すなわち、理論的というより心情的であった。彼は自分の年来の理論に反して、アジア主義を唱えたのである。ゆえに、「脱亜論」を唱えたのは、彼の学生や親友が朝鮮政府によって虐殺されたということへの憤激から来るものだった。たとえば、彼が書いた社説「朝鮮人民のために其(その)国の滅亡を賀(が)す」という激越な言い方も、そこから来ている。
 著者は、現在の状況が日清戦争前後の状況と類似すると見ている。私も同感である。
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 講談社選書メチエ・1998円/つきあし・たつひこ 62年生まれ。東京大学大学院教授。『福沢諭吉と朝鮮問題』など。

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