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心の平安 [著]アフメト・ハムディ・タンプナル [訳]和久井路子

[評者]中村和恵(詩人・明治大学教授・比較文学)

[掲載]2015年11月29日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■東西の接点(イスタンブール)で苦悩する青年たち

 舞台は1939年のイスタンブール。独立戦争後の混乱で父母を失い、従兄(いとこ)イヒサンを師と仰いで育った文学青年ミュムタズは、二つ年上の美しい女性ヌーランに恋をしていた。離婚したばかりの彼女は、トルコ伝統音楽に造詣(ぞうけい)の深い、旧家の娘だった。
 ミュムタズはイスタンブールの街を歩く。古書店街で革表紙の雑誌をめくり、幾重にも時代を経た書きこみから、亀の甲羅や柘榴(ザクロ)やサフランを使う呪(まじな)いの処方箋(せん)を知る。何世紀もの混沌(こんとん)が交差する骨董(こっとう)街の迷路を抜け、獰猛(どうもう)な美しさで輝く冷たい宝石に見入る。ヌーランと二人でスルタンの離宮やモスクをめぐり、ヤヒャ・ケマルの詩を諳(そら)んじる彼の後を追って、読者もトルコの旧家に誘われ、美食と季節の遊び、古典文学と伝統音楽の世界を垣間見る。
 しかしオスマントルコ帝国の残滓(ざんし)が輝くその街を、いま支配しているのは貧困と不衛生、崩壊と疲労だ。青年たちは議論を繰り返す。戦争と革命、ヨーロッパと新しいトルコについて。マラルメを引用し、ドビュッシーのレコードを買う彼らの中には、イヒサンのようにヨーロッパで学んだ者もいる。西は、すぐそこなのだ。二つの文化の間で悩む知識人青年。その主題は近代日本にも通じている。
 ヌーランが伝統文化の鏡だとすれば、絶望に苛(さいな)まれる青年スアトは、近代化の混乱と荒廃の体現者だ。二人はイスタンブールがもつ二つの顔なのだ。夜の街でミュムタズは死んだはずのスアトに会う。死者たちが行きかう街に、戦争勃発のニュースが流れる。
 侵略と支配の歴史を指摘しヨーロッパの危機は自ら招いたものではないか、という友人にミュムタズは、大切なことは、という。「不当なものと闘う時に、新たな不当を犯さないということだ」
 東西の接点で紡がれた、近代トルコ文学の古典的名作。古びていないどころか、まさにいま読むべき物語だ。
    ◇
 藤原書店・3888円/Ahmet Hamdi Tanpinar 1901〜62年。トルコの作家、詩人。

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