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李承雨「香港パク」書評 見えないもの暴く、精神の深層

評者: 蜂飼耳 / 朝⽇新聞掲載:2015年12月20日
香港パク 著者:李 承雨 出版社:講談社 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784062196765
発売⽇: 2015/10/21
サイズ: 20cm/349p

香港パク [著]李承雨

 韓国の作家・李承雨の小説は、たたみかけるように重なる叙述がやがて未知の場を拓(ひら)いてみせるところに、無類の魅力をもつ。そこにある言葉は、見えないものを暴こうとする方向を向き、冷厳で、粘り強い姿を見せる。
 短編集『香港パク』は初期の作品八編を収録。表題作は一九八〇年代と思われる韓国の小出版社が舞台だ。社長は横暴極まりない人物。社員の中に、香港パクと呼ばれる男がいる。「香港から船さえ入港してみろ、こんな職場辞めてやるよ」と彼は宣言する。
 社員たちは詳細を知らぬまま、なぜ香港なのかもわからず、けれど、いつしかその船が来ることに望みをかけるようになるのだ。ある日ついに香港パクは退社してしまう。いつか船が来るという悲しい確信だけを残して。信じることで、日常をなんとか凌(しの)ぐ。それは人間がもつ能力の一つかもしれない。著者は、そのシンプルな素材によって普遍的な構図を描出する。
 「首相は死なない」は、噂(うわさ)や白昼夢、演技と事実の隙間を縫って進む。首相は、自分が死んだという噂が流れるたびにマスコミを通して健在ぶりを示す。「彼は数限りなく死んだが、一度も死ななかった」。小説家のK・M・Sは捕縛され、取り調べを受ける。どこまでが白昼夢で、どこまでが現実なのか。それらが逆転するかのように動いて、出口は塞がれる。
 クレタ島の迷宮と怪物ミノタウロスをめぐる「迷宮についての推測」や、太陽が昇るかどうかで不安と恐怖に振り回される人々を描く「太陽はどのように昇るのだろうか」など、神話や寓話(ぐうわ)の要素を軸として人間性に迫る作品にも、引き込まれる。
 読むうちに思いがけない闇の縁に立たされ、愕然(がくぜん)とする。李承雨が扱う世界で、精神の深層にふれないものはない。いま急速に忘れられつつある、小説という表現の大切な性格が、ここにはある。
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 金順姫訳、講談社・1944円/Lee Seung−U 59年、韓国生まれ。作家。『生の裏面』『真昼の視線』など。