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ロゴスの市 [著]乙川優三郎

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史)

[掲載]2016年01月10日

[ジャンル]文芸

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■「友人で同志」の清冽な交わり

 昭和五十五年初夏、「せっかち」な女と「のんびり」な男は大学のサークルで出会った。ともに二十歳・英文科二年生、英語漬けの毎日を送っていた。女がせっかちなのは性分もあろうが、育った家庭の事情が深く関わっていた。彼女は少しでも早く社会に出ることを冀(こいねが)い、英語を瞬時に日本語に変換する同時通訳をこころざした。将来に格別な展望をもっていなかった男は女から多大な刺激を受け、時間をかけて英語と向き合える翻訳家への道をゆっくりと、しかし着実に歩み始める。
 「学生時代からの友人で同志」とある。加えて私には、自らに厳しい武士のように思われた。話し言葉と書き言葉と差異はあれ、二人はそれぞれに言葉と格闘しながら己(おのれ)を磨く。女は世界を飛び回る洗練された通訳に成長し、男は最もふさわしい翻訳のありようを追い求めて悩み、考え尽くす。そして彼らは日々の成果を携えて対峙(たいじ)し、真摯(しんし)に容赦なく斬り結ぶ。清冽(せいれつ)な交わりは時の経過につれて、さていかなる像を結ぶのか。私の拙(つたな)い表現で紹介してしまっては台無しと言うほかない。ぜひ直(じか)に確かめてほしい。
 私は古い資料の読解を生業とする。室町幕府四代将軍足利義持はでき物を掻(か)き破り、雑菌に毒され没した。さる貴族の日記に「室町殿、雑熱あり、馬蹄(ばてい)」とあり、室町殿は義持で雑熱はでき物だが、馬の蹄(ひづめ)が何を意味するか、どう調べても誰に聞いても分からなかった。だが、先日ふと、そうかおできの形状の説明を試みた言葉だ、と思い至った。コロンブスの卵だが三十年ごしの謎が解けた。
 私は主人公のように熟達し得なかったが、それだけに凡庸ながら同じロゴス(論理的に語られたもの。言葉)の徒として、強い憧憬(しょうけい)を彼に抱いた。更にいうと男と女と私、また「学生時代からの友人で上司」である妻は同い年となる。私にとり間違いなく、近年読んだ小説の随一である。
    ◇
 徳間書店・1620円/おとかわ・ゆうざぶろう 53年生まれ。作家。『生きる』で直木賞、『脊梁山脈』で大佛次郎賞など。

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