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つかこうへい正伝 1968—1982 [著]長谷川康夫

[評者]宮沢章夫(劇作家・演出家)

[掲載]2016年01月24日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■流れる劇的な動力、特別な情感を構築

 つかこうへいの劇作の基本が、ほとんど「口立て」だったのは有名な話だ。
 即興で次々と台詞(せりふ)を俳優に伝える姿は本書でも随所に描かれる。言葉だけではない。台詞のリズムや抑揚まで俳優は「口立て」された通りに再現する。そうした演出法は、能や歌舞伎など、少なからず過去にもあったと想像するが、結果として、一九七〇年代の半ばからはじまった、いわゆる「つかブーム」を巻き起こす一連の作品群の魅力、圧倒的な観客の支持は、当時としては斬新だった、この「口立て」の、つかこうへいの鋭い感覚にあったのだろう。
 身近な場所でその仕事を手伝っていた者による、つかこうへいの肖像は、シニカルでありつつ、深い敬愛をこめて描写される。著者の目に映るその男はとんでもない人物だ。いくつかのエピソードに驚くと同時に、巧みな描写によって興味深い物語になる。笑ったなあ。著者が手にしていたタバコの束をなにも告げず自分のものにしてしまう初対面の男とはいったいなんなのだ。
 もちろん見事な作劇術として語られるつかこうへいの「逆説」、たとえば『熱海殺人事件』なら、犯人の物語をドラマチックに仕立てあげなければ事件は解決しないと思いこむ部長刑事の不条理な論理だ。当時、それら一連の作品に触れた者は、その飛躍した論理、いわばでたらめさを狂喜し笑って迎えた。
 けれど、こうした「つかこうへい像」や「笑いの方法」と同様に興味深いのは、本書だからこそ分析される、つか作品に固有のドラマツルギーと呼ぶべき劇的な動力ではないか。つかこうへいならではの、特別な「情感」の構築だ。その男の肖像によって知る傍若無人さと、作品にある、情感や劇的な欲動の高まりは、どこか不似合いだ。けれど、なんら齟齬(そご)はないのだと著者は語る。つまり、ねじれた愛情だ。人に対するシニカルな視線から生み出された距離だ。ここで触れる情感の高まりは、憐(あわ)れみや、愛(いと)おしさ、人が背負い込んだ哀(かな)しみのことではなかったか。とはいえ、つかこうへいはそれをまともに描かなかった。スターの座を奪われた老女優ヴィヴィアン・リーの悲劇をモチーフにしても、ねじれた姿になって、『蒲田行進曲』という作品が構想される。
 「銀ちゃんは銀ちゃんで、ヤスの中に自分への哀れみを感じたとき、激高し、異常なまでの昂(たか)ぶりで、彼を足蹴にしてしまう」
 たしかに、見事なほど、つかこうへい作品の核心だ。そして著者も書くように、それは、つかこうへいが演じたかった、「つかこうへい」である。
    ◇
 新潮社・3240円/はせがわ・やすお 53年生まれ。演出家・脚本家。早大入学後、劇団「暫」に入り、つかと出会う。「蒲田行進曲」などのつか作品に出演。映画「亡国のイージス」で日本アカデミー賞優秀脚本賞。脚本作品に「起終点駅ターミナル」など。

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