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初日への手紙 2―『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』のできるまで [著]井上ひさし

[評者]原武史(放送大学教授・政治思想史)

[掲載]2016年01月24日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■天皇の密使を柱に戦争末期再現

 一昨年に公開された「昭和天皇実録」には、1945年6月12日、「海軍戦力査閲使長谷川清に謁(えつ)を賜(たま)い、第一回・第二回の戦力査閲に関する復命を受けられる」とある。同年7月18日にも「長谷川清に謁を賜い、第三回の海軍戦力査閲計画につき奏上を受けられる」とある。天皇が第三回の戦力査閲に関する復命を受けたのは8月13日だった。
 長谷川清は海軍軍人で、45年に天皇の特命を帯びて戦力を調べるため全国を回った。その結果、戦争遂行能力が失われていることを6月と8月に報告したのだ。
 たとえ関係史料を見ていたとしても、2010年に死去した井上ひさしが「実録」を読んでいたはずはない。だが本書を読むと、まるでこの箇所に鋭い視線を注いでいたかのように錯覚してしまう。本書は第一部「紙屋町さくらホテル」と第二部「箱根強羅ホテル」という二つの戯曲ができるまでの著者の膨大な私信やメモを収録したものだが、第一部では長谷川清が天皇の密使として登場するからだ。
 長谷川清と天皇の関係を柱に、戦争末期の緊迫した場面を再現しようとする著者の構想力が、時に肉筆のメモを交えつつ読者に生々しく迫ってくる。その背景には、もし天皇の決断がもっと早ければどれだけの人々を救うことができたかという著者の強いこだわりがある。天皇の戦争責任を問う姿勢もまた、ここから生まれてくる。
 もし著者が生き返って「実録」を読んだら、第一部の構想が裏付けられたと感じただろう。いやそれだけでなく、天皇が長谷川清に会った翌々日の45年6月14日に皇太后(貞明皇后)にも会っていたという「実録」の記述に目を留めたに違いない。
 実は本書の第二部に、皇太后が少しだけ出てくる。著者は、「実録」の他の記述にも留意しつつ、第二部を書き直したのではないか。そんな想像すらかき立てられた。
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 白水社・3672円/いのうえ・ひさし 1934〜2010年。『吉里吉里人』など小説、戯曲、エッセーを多数執筆。

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