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世界文学論集 [著]J・M・クッツェー

[評者]中村和恵(詩人・明治大学教授・比較文学)

[掲載]2016年02月14日

[ジャンル]文芸

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■古典も率直に検証、南ア出身者の透徹

 かつて「世界文学」とは、まず西ヨーロッパとイギリス及びロシアの巨匠、北米・中南米の著名作家、最後にその他が若干、といったものだった。いまや「その他」こそが世界文学の活発な拠点だ。現英語圏、いや世界で最も重要な作家のひとりであるクッツェーも南アフリカ出身である。
 鋭い文学研究者でもある著者のこの評論集に編まれた14編が論じる作家のうち、「その他」はやはり南アのゴーディマ、ブライテンバッハに、レッシング、ルシュディぐらい。しかしクッツェーの観点は旧来のものとは違う。それはT・S・エリオットの講演についての容赦ないほど率直な冒頭の考察でよくわかる。
 アメリカ人からイギリス人に「なった」エリオットは、そのことに触れず、自らをローマ起源の西ヨーロッパ文明の正統な末裔(まつえい)と位置づける。この行為を「文化的重みの横領」とクッツェーは呼ぶ。だが彼はエリオットの背後に、自身が育った植民地的な文化状況を見いだしてもいる。違う時代、違う場所に生まれたかったという思いは、「宗主国の高い文化」を仰ぎ見て同化しようともがく、植民地の若き知識人に珍しくない。
 15歳のときケープタウン郊外の裏庭で、隣家から流れてきたバッハにクッツェーは衝撃を受けたという。この経験はバッハに権威づけする教育によるのか、音楽自体の価値によるのか? バッハの評価は変遷を経た。つまり古典とは、攻撃され権威を奪われても再検証に耐え、生き延びるものだ。こうしてクッツェーは特権的中心(巨匠)と周縁(その他)に分断されない、ひと連なりの平原に立つ。この世界文学の平原に古典は投げ返され、再検証されるのだ。
 つづくベケットとカフカの分析は高度に抽象的で、作家の背景などはおそらく意図的に棚上げされている(しかしこのカフカの現在形の用法、断絶した瞬間の連続から永遠の現在が生じる様相の分析は、難しいがじつにおもしろい。カフカの文章のどこがどう変なのか、初めて腑〈ふ〉に落ちた!)。さらにトルストイ、ルソー、ドストエフスキーの告白で反復される自己認識と自己懐疑/欺瞞(ぎまん)を論じる際も、根源的なはずの各人の宗教的感覚には、あまり触れられない。
 論じられる主題の多くは、じつはクッツェー自身の小説の主題でもある。彼が立つ文学の平原は、やはりアパルトヘイト下の南アで培われた土壌の上にあるのだ。そこで作家は検閲官にも革命家にも与(くみ)せず、自分を英雄視もせずに、隘路(あいろ)を進まなければならない。単一の解釈とナイーブな論調をつねに警戒しながら、どこまでも覚醒した自己と世界の認識へと、クッツェーは自分を追い立てていく。
    ◇
 田尻芳樹訳、みすず書房・5940円/J.M.Coetzee 1940年南アフリカ生まれ。2003年ノーベル文学賞受賞。著書に『マイケル・K』『恥辱』(ともに英国のブッカー賞)、『夷狄(いてき)を待ちながら』『遅い男』『サマータイム、青年時代、少年時代』など。

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