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プラハの墓地 [著]ウンベルト・エーコ

[評者]末國善己(文芸評論家)

[掲載]2016年04月03日

[ジャンル]文芸 社会

表紙画像

■陰謀論の嘘にどう向き合うか

 今年2月19日に亡くなったウンベルト・エーコは、記号論学者であり、『薔薇(ばら)の名前』など世界的なベストセラーを残した作家でもあった。エーコが2010年に発表した本書も、知的好奇心を刺激する仕掛けの中に、現代の日本とも無縁ではないテーマを織り込んだ一級のエンターテインメント小説である。
 ユダヤ人を憎む祖父に育てられ、イタリア統一戦争で父を亡くしたシモニーニは、祖父の死後、遺産を公証人に騙(だま)し取られた。仕方なく公証人の下で働き始め、文書偽造の才能を開花させる。偽の証拠を使ってでも政治犯を排除したい各国の秘密警察の目にとまったシモニーニは、やがてパリに向かい、ナポレオン3世の独裁、普仏戦争、パリ・コミューンの成立、そしてドレフュス事件など、歴史的な大事件の裏で暗躍していく。
 謀略に加担したことで、祖父の言葉が真実だと確信したシモニーニは、プラハの墓地でユダヤ人が世界征服を計画したとする文書を偽造する。この文書が、ヨーロッパの反ユダヤ思想と共鳴し、ナチスのユダヤ人虐殺の根拠になった偽書「シオン賢者の議定書」へと発展するプロセスが、後半の鍵となる。
 シモニーニは架空の人物だが、それ以外の登場人物はほぼすべて実在している。そのため、虚実を混交して現実の歴史と矛盾しないフィクションを紡ぐ伝奇小説としても、テロリストや秘密警察といったアンダーグラウンドの住人が、シモニーニの周囲で怪しい動きをするサスペンスとしても秀逸である。
 物語は、シモニーニの手記をなぞることで進むが、彼が意識を失っている間は、イエズス会士のピッコラが手記を書いているらしい。やがて二人は死体を発見。二人の関係は何か。死体は何者で、誰に殺されたかを推理するところは謎解きの面白さがあり、どのジャンルが好きでも満足できるだろう。
 著者は、シモニーニの完璧な偽造文書や、意識を失ったシモニーニの手記をピッコラが書き継ぐエピソードを使って、ユダヤ人が社会を裏側から動かしているという荒唐無稽な陰謀論が、歴史の中に紛れ込み、事実として広まるメカニズムに迫っている。しかもユダヤ人への憎悪と偏見が根強い当時のヨーロッパでは、陰謀論の嘘(うそ)に気付くのが難しかったのだ。
 現代の日本でも、太平洋戦争はコミンテルンの工作で引き起こされたので、日本に責任はないとする陰謀論が語られ、特定の人種、国籍、宗教を排斥するヘイトスピーチの嵐が吹き荒れている。本書は、いつの時代も跋扈(ばっこ)するシモニーニ的なものと、どのように向き合うべきかを問い掛けているのである。
    ◇
 Umberto Eco 1932~2016年。記号論学者、評論家、哲学者、文学者、作家。イタリア・ボローニャ大学名誉教授。『開かれた作品』『記号論』『フーコーの振り子』など。

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