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模範郷 [著]リービ英雄

[評者]大竹昭子(作家)

[掲載]2016年05月15日

[ジャンル]歴史 文芸

表紙画像

■恐れ超え、記憶の場に踏み込む

 リービ英雄の最初の小説「星条旗の聞こえない部屋」が発表されたのは一九八七年。英語で生まれ育ったアメリカ人が日本語で書いた小説として話題をよんだが、それ以来、彼は日本語で書かなければならない理由を、自伝的素材を使いながら、創作を通して自問自答しつづけてきた。
 八年ぶりの本作は、日本領有時代に台湾に創られた日本式住宅街、「模範郷」を再訪する表題作で幕開ける。その家は「『家はどこなのか』と聞かれたらそこだと答える」原風景、家族の記憶が詰まった場所だ。当然だろう。世界はそこだけ、という六歳から十歳の時期を過ごしたのだから。
 人の案内でそこに接近し、塀に沿った側溝を覗(のぞ)き込んだとたん、「何語にもならない」ここだ、という感覚に襲われ、顔を涙が濡(ぬ)らしているのに気づく。
 中国は繰り返し訪れたが、模範郷があった台湾の台中には一度も来ていない。ためらわせた理由は二つあったはずだ。一つは、創作の源泉だった記憶が塗り替えられる恐れ。もう一つはもっと潜在的なものだったかもしれない。その家は、父親が他の女性の元に去って家族が崩壊した場、母が障害を負って生まれた弟と「ぼく」をひとりで育てる決意をした場だった。そこに身を置いて無意識の領域が蓋(ふた)を開けてしまうのを、恐れる気持ちがあったのではないだろうか。
 記憶を梃(てこ)にして回想記のスタイルで書いてきた著者が現実界に踏み込んでいく緊張と不安が、論理と感覚と感情のバランスを絶妙にとった筆致で綴(つづ)られる。一個人の数奇な運命を超えて、言葉や空間や情景が生の輪郭を形づくるさまを浮き彫りにする。
 パール・バックの『大地』に触れた「ゴーイング・ネイティブ」の最後、「人種でもなく生い立ちでもなく、文体の問題なのである」という言葉が実践されているのを感じた。何にも寄りかからない、急がない文章の力だ。
    ◇
 りーび・ひでお 50年生まれ。『万葉集』の英訳で全米図書賞。05年、『千々にくだけて』で大佛次郎賞。

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