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「武者小路実篤とその世界」書評 90歳代でなお鋭い仮説を提起

評者: 原武史 / 朝⽇新聞掲載:2016年05月29日
武者小路実篤とその世界 著者:直木 孝次郎 出版社:塙書房 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784827301236
発売⽇: 2016/04/05
サイズ: 20cm/233p

武者小路実篤とその世界 [著]直木孝次郎

 直木孝次郎の名を初めて知ったのは、1964年発表の「持統天皇と呂(りょ)太后」という論文であった。天武天皇とその皇后だった持統天皇が、漢の皇帝高祖(劉邦)とその皇后の呂后を意識していたという着想の鋭さに魅せられたのだ。
 この論文が発表されてから半世紀あまりがたった。90歳代になった著者は、いまなお刺激的な説を発表している。本書は著者と付き合いのあった武者小路実篤の作品や思い出、あるいは実篤をめぐる人びとなどに関する文章を集めたものだが、最後の「余論」で森鴎外に触れている。鴎外が陸軍省を辞めた直後に書いた「空車(むなぐるま)」という小品に着目し、当時の鴎外は天皇制をどう考えていたかを論じた「余論」の文章こそ、本書の白眉(はくび)というべきだろう。
 ここで著者は、唐木順三や松本清張らの説を批判しつつ、「空車」を牽(ひ)く大男を山県有朋と推定し、「空車」には本来、大正天皇が乗っていたとする。鴎外は、山県に代表される藩閥官僚によってつくられた天皇制というシステムと天皇個人を区別していた。明治から大正になり、システムはますます大きくなるが、天皇自身は逆に「空虚」になる。それを象徴するのが「空車」だという指摘には思わずうならされた。
 著者は触れていないが、鴎外は1900年に勤務先の福岡県小倉で皇太子時代の大正天皇に会っている。そのとき抱いた印象と、著者が触れる大正天皇の即位礼に参列したときの印象は全く違っていたはずだ。鴎外は大正天皇を通して天皇制に対する批判を抱くようになり、細心の注意を払いながら、それを作品として残しておきたかったのではなかろうか。
 この鋭い仮説は、著者が卒業した現在の神戸高校の関係者が刊行する雑誌に発表された。もし本書が世に出なければ、おそらく気づかれなかったに違いない。直木孝次郎という学者の生き方が人柄も含めて伝わってくる一冊である。
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 塙書房・2484円/なおき・こうじろう 19年生まれ。大阪市立大学名誉教授(日本古代史)。著書に『古代国家の成立』など。