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私の消滅 [著]中村文則

[評者]蜂飼耳(詩人・作家)

[掲載]2016年07月31日

[ジャンル]人文 社会

表紙画像

■悪意に操られる記憶と人格

 記憶は、個人の同一性と結びつく。それなら、記憶が操作され、実際とは異なる記憶がはめこまれたら、人は別人格を生きることになるのか。本書は、悪意と暴力、記憶と人格が描出する見えない線への挑戦だ。
 サスペンス的な展開の中、精神分析や洗脳の歴史が盛りこまれる。日本社会で現実に起きた連続幼女殺害事件の犯人の心理が分析される。記憶と人格と人生が入り乱れて「私」とは誰か、という問いと謎を読者へ突きつける。
 冒頭、古びたコテージで「僕」は手記を読む。それを書いた人物は小塚亮大。職業は精神科医。治療を受けるために小塚のもとを訪れたゆかりという名の女性に、小塚は職業的な倫理を超えて接近する。
 心身に過去に受けた暴力の傷を負うゆかりに対し、小塚はECT(電気ショック療法)を施す。「僕はこの人生というもの、そのものに抵抗していたのだと思う。人はもっと静かに生きられると。たとえこの世界が残酷でも、僕達(ぼくたち)はやっていけるのだと」
 やがてゆかりは小塚から離れ、カフェを営む和久井の恋人となる。だが、和久井は小塚の敵ではなく、むしろ共謀関係が生じる。なぜなら、ゆかりをめぐる人間関係の背後には、さらなる悪が潜んでいるからだ。
 吉見という精神科医の老人は、興味本位の悪意で人の心理を操作する。悪の側面だけを過度に強調した性格を描いて平面的にならないのは、幾重にも錯綜(さくそう)する要素によって、周到な手際でストーリーが構成されているからだ。悪意の連鎖と復讐(ふくしゅう)劇が繰り広げられる。
 これまでも著者はさまざまな悪意、心の闇を作品化してきた。言葉によってかたちにすることで、初めて対峙(たいじ)でき、ときには乗り越えられる、というように。現代、これは小説のもっとも大事な機能の一つだ。物事の直視は、混乱よりも冷静さをもたらすからだ。いま生まれるべくして生まれた、緊迫感溢(あふ)れる傑作だ。
    ◇
 なかむら・ふみのり 77年生まれ。『土の中の子供』で芥川賞。『掏摸 スリ』で大江健三郎賞。米の文学賞も受賞。

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