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フリーダ 愛と痛み [著]石内都

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2016年07月31日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能

表紙画像

■「遺品たち」の写真、自由な視座

 見つめれば見つめるほど遺品というものは不気味で気持ちの悪いものである。
 この写真集の帯文には「彼女が、今ここにいる」とあるが、ここにいるのは写真家であって、つまり「彼女」フリーダ・カーロはここにはいない。ここにあるのは蝉(せみ)や蛇が脱皮したあとに遺(のこ)した抜け殻のようなものである。ここに「いる」のは彼女の不在証明としての、かつての生の記憶にすぎない。
 僕も16年前に、フリーダ・カーロの終(つい)の棲家(すみか)〈青の家〉を訪ねたことがある。メキシコの強い光の下で見るフリーダの遺品は、彼女の絵画の持つ生命エネルギーとは別個の、光に吸収された負のエネルギーのような、主人公から見捨てられた実に孤独な非感情的な物質としての死体(オブジェ)が無言で横たわっていたようだったのを思い出す。
 そしてどこからともなく、「私はここにいませんよ」というフリーダの非物質的世界の彼方(かなた)からの声を聴いた。僕はこれらの遺品に対して、極力感情を排して冷めた眼(め)で眺めるべきであることを、彼女の声なき声の響きから感じとった。
 彼女の絵画は時には観(み)る者に感情を押しつけてくる。その感情の矢を如何(いか)にかわすかというのが芸術作品との交流でもある。われわれは芸術に感情や意味を必要以上に与え過ぎてはいまいか。それが生の証明であるといえばそうかもしれないが、死して非物質的世界の実相にあるカーロは、かつての感情過多な自作を、そのまま素直に受け止めているのだろうか。
 まして〈青の家〉に遺されたかつての肉体の分身に、彼女の未練はすでに消滅しているはずだ。もしそうでなければ彼女は肉体から解放されていないことになる。「遺品たちとの対話」(帯文)とは、写真家と遺品との対話ではなく、むしろカーロの魂と、カーロの遺品との対話ではないのか。これらの写真は、われわれに自由な視座を与えてくれる。
    ◇
 いしうち・みやこ 47年生まれ。79年、木村伊兵衛写真賞受賞。写真集『ひろしま』『幼き衣へ』など。

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