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戦艦武蔵 [著]一ノ瀬俊也

[評者]五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)

[掲載]2016年09月11日

[ジャンル]歴史 社会

表紙画像

■戦争忘却を促す「事実への逃避」

 戦艦大和が様々に語られてきたのに対し、なぜ武蔵はそうならなかったか。これが本書の問いである。すでに著者は『戦艦大和講義』(人文書院)において、大和をめぐる言説やサブカルチャーを通じて日本精神史の照射を試みた。が、今回の切り口は違う。むろん、本書を読むことで、武蔵の建造から沈没までの戦史を知ることができる。が、著者の狙いは、歴史/物語、あるいは真実/虚構の二分法に疑義を呈することだ。
 例えば、現代人は戦争を知らないと言われる。だが一ノ瀬によれば、海軍の動向を振り返ると、必ずしもリアリズムからではなく、当時から既に戦争をファンタジー化し、巨艦信仰を背景に開戦に突入した。また、艦長の遺書には広く共有された語りの様式美が刷り込まれていること、生き残った乗員の証言が人々の望むように脚色され定型化することなども分析している。
 本書は物語論である。大和の沈没が日本再生のための崇高な死とされ、感動の涙で消費されるのに対し、元乗組員・佐藤太郎の小説『戦艦武蔵』は通俗時代劇の話法を踏襲しているという。これを批判した吉村昭の記録小説『戦艦武蔵』は事実だけを探求したとされるが、一ノ瀬によれば、都合よく台詞の創作や事実の取捨選択をした教訓の物語に過ぎず、戦争責任の問題もぼかされた。大和に比べて、武蔵は多くの生存者が残り、海軍での恨みつらみを抱えていたことも武蔵の物語を暗くしたという。
 最後に著者が問題視するのは、「客観的な真実」を神聖化し、物語を排除することで、なぜ戦争が起きたのか、兵士の死がもつ意味を人々が考えなくなる近年の動向だ。これを「事実への逃避」と呼ぶ。かくして武蔵は何者でもなくなり、無味乾燥な教科書の一ページや軍事マニアのネタとしてのみ記録される。そして、ただの記号的な事実になるとき、太平洋戦争は本当に忘却されるのではないかと痛感させられた。
    ◇
 いちのせ・としや 71年生まれ。埼玉大学教授。日本近現代史。『旅順と南京』『日本軍と日本兵』など。

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