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忘却された支配―日本のなかの植民地朝鮮 [著]伊藤智永

[評者]原武史(放送大学教授・政治思想史)

[掲載]2016年09月25日

[ジャンル]歴史 政治

表紙画像

■隠された記憶と責任をたどる

 もう20年以上も前のことだ。小郡(現・新山口)からJR宇部線に乗った。平凡な車窓風景に見飽きてきた頃、不意に左手の視界が開け、周防灘が現れた。だがそれよりもっと驚いたのは、海岸に点在するバラックのような住宅群だった。そこに駅はなく、列車は廃虚のようなところを瞬時のうちに通り過ぎた。
 本書を読み、あのときの光景がまざまざとよみがえってきた。私が見たのは、1942年の事故で183人が亡くなり、遺体が収容されないまま閉山した長生(ちょうせい)炭鉱の住宅群だったのだ。犠牲者の7割は、朝鮮人労働者であった。
 当時、植民地の朝鮮から日本に連れてこられた多くの人々が、日本人より給料が安く、作業が過酷で危険な炭鉱に動員された。長生炭鉱も「朝鮮炭鉱」と呼ばれていたという。しかし戦後も地元では、朝鮮人を除外して日本人だけで追悼する動きが見られた。事故現場の近くに朝鮮人と日本人の犠牲者の名前が並ぶ碑が建てられたのは、2013年になってからである。
 なぜこれほどの時間がかかったのか。著者は、戦争責任のほかに、「植民地支配責任」と呼ぶべき責任があると主張する。開戦から終戦までの戦争に比べて、植民地化される前とされた後の過程はずっと長い。しかも、植民地を支配したという意識が、戦後の日本で受け継がれてきたとは言いがたい。そこに朝鮮人と日本人の意識の違いも生じるわけだ。戦後70年安倍談話でも、日本の植民地支配については一切明言しなかった。本書では、政府の立場とは裏腹に、「植民地支配責任」を自覚しつつ地道に活動を続ける日本人の姿も描かれている。
 列車で何げなく見ている光景のなかにも、隠された植民地支配の記憶が横たわっている。しかし本書のような著作に出会わなければ、その記憶をたどることは永遠にない。忘却することもまた責任を放棄しているという思いを強くした。
    ◇
 いとう・ともなが 毎日新聞編集委員。86年入社。著書に『奇をてらわず』『靖国と千鳥ケ淵』など。

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