原爆ドーム―物産陳列館から広島平和記念碑へ [著]頴原澄子

[評者]五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)  [掲載]2016年10月09日   [ジャンル]歴史 

■取り壊し免れた“絵になる廃虚”

 世界遺産に登録された原爆ドームは、最初からその価値が認められていたわけではない。1950年頃から誰言うとなく「原爆ドーム」と呼ぶようになり、市議会で永久保存が決議されたときは戦後20年以上が過ぎていた。本書は、1915年に広島県物産陳列館として建設された時から、現況にたどり着いた経緯を論じる。日本近代に発生した物産館という施設の系譜、広島の復興計画の歩み、丹下健三による平和記念公園の構想、原子力の平和利用の流れ、エポキシ樹脂を注入する新しい保存技術、世界遺産というシステムの展開などを緯糸(よこいと)として、歴史をつむぐ。
 3・11後の東北で震災遺構を巡る議論がなされ、もう見たくないから壊せという声が寄せられたように、後世に原爆ドームが残らない事態が幾度もありえた。そのことを意識しながら読むと興味深い。例えば、後に市長となった浜井信三が1946年当時、ドーム周辺を公園用地に指定し、県都市計画課長だった竹重貞蔵が独断で取り壊しを中止し解体予算を返上した。残すかどうかの決定を先送りにしたのである。外国人からの保存の提言もあった。
 もうひとつの手がかりは、ピクチャレスクだったことかもしれない。すなわち、絵になる風景だった。チェコ出身のヤン・レツルが設計した物産陳列館は当時からデザインが注目されていた。そして廃虚になった後も絵画の素材に取り上げられることが多かった。敗戦直後から原爆十景が選定されたり、観光バスの運行が企画されたりもした。
 これに決定的な風景としての枠組みを与えたのが、自ら設計した建物と原爆ドームを軸線でつないだ丹下の公園デザインである。著者はイギリス留学中に風景式庭園を訪れ、軸線を通じて廃虚を眺める経験をしたことから、原爆ドームを連想したという。もし絵になる廃虚でなかったら、果たして残ったのだろうかと考えさせられる。
    ◇
 えばら・すみこ 72年生まれ。千葉大学大学院工学研究科准教授。『身近なところからはじめる建築保存』。

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