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ひかり埃のきみ―美術と回文 [著]福田尚代

[評者]大竹昭子(作家)

[掲載]2017年01月15日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■くり返し闇となり光となる言葉

 子どもは誰も本好きだ。物体としての本を、そこで繰り広げられるお話を愛して止(や)まないが、成長するにつれて内容を読解するという客観的な態度に変わる。
 だがここに、幼少期の本への偏愛を驚くべき情熱で保ちつづける人がいる。物語を超え、言葉の意味を超え、文字が物象となる地点へと歩きつづける。肩書は「美術家」だが、その行為は明らかに従来の美術にはなかったものだ。
 あるとき「はじまりからも終わりからも読むことのできる言葉」にとり憑(つ)かれ、書き出したら止まらなくなった。「罪の血は蜂の蜜」のような短いのもあれば、一ページを埋める長いものもある。それがひらがなに書き下されてページに併記されているが、漢字入りだと意味が際立つのに、ひらがなだとぱらぱらして粉末のよう。まったくの別物なことに驚く。
 回文作りは、消しゴムを薄く削(そ)ぐ、本のページに細かい穿孔(せんこう)を施す、文字を刺繍(ししゅう)する、彫り抜く、本のページを折り込むなど、言葉や文字を消そうとする衝動に発展、その作品も写真で見ることができる。
 「言葉を消すことは非在する言葉を書くことにほかならず、言葉はくりかえし闇となり光となる」
 輪になった回文は閉じた世界に見えるが、その輪のなかで言葉は粉々に砕かれ、「境界線の中にしみ込んでゆける」姿に変わる。隔たりを超えて世界と一体化しようとする祈り、前進ではなく、無から有へと循環しようとする行為だ。「表現しよう、伝えようということではなく、むしろ逃がそう、匿(かくま)おう、ひそかに生き延びさせよう、という願いから生まれる美術がある」
 自我の行き着く果てを日々実感し呆然(ぼうぜん)とする私に、この言葉は泉水のように染み渡ってゆく。「言葉は人が作ったものではない」という意表をつく表現も受け入れられる。言葉を巡るあらゆる美術行為が生命活動と結び合っているのだ。
    ◇
 ふくだ・なおよ 67年生まれ。現代美術家・回文作家。『福田尚代作品集2001―2013 慈雨百合粒子』など。

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