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源氏物語 A・ウェイリー版(1) [訳]毬矢まりえ、森山恵

[評者]蜂飼耳(詩人・作家)

[掲載]2018年02月04日

[ジャンル]文芸

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■〈戻し訳〉に響く新しい音色

 アーサー・ウェイリーによる英訳『源氏物語』(『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』)は、一九二五年に刊行が始まった。九年の歳月を掛け、第六巻で完結。この長大な物語に世界文学としての場所を与え、いまも影響をもたらし続けているウェイリー訳を、日本語に訳したらどうだろう。毬矢まりえ・森山恵による今回の翻訳(全四巻)は、百年ほど前のヨーロッパの文化と接触した『源氏物語』を現在の日本語の場へ連れて来る意欲的な試みだ。〈戻し訳〉は佐復(さまた)秀樹訳『ウェイリー版 源氏物語』(平凡社、二〇〇八~〇九)が最初だが、それに次ぐ挑戦となる。
 登場人物名はゲンジ、エンペラー・キリツボ、トウノチュウジョウ、ロクジョウなどのカタカナ表記。ところどころ、漢字がルビとして入れられるなど、読者が文字からイメージを引き寄せられるように工夫が施されていて面白い。たとえば「ワードローブのレディ」に「更衣」、「カーテン」に「御簾(みす)」、「リュート」に「琵琶」など。
 ウェイリーはある日、勤務先の大英博物館で日本画の整理中に「須磨」の一場面を目にした。一人の貴公子が月を眺めている絵。そのとき急に『源氏物語』を読んでみたくなり、翻訳へ繋(つな)がったという。日本文化を背景に持つ読者、日本語話者、日本人にとっても、千年ほど前の物語に書かれていることは身近なわけではない。その意味でも平安王朝の物語にウェイリーが注いだ視線は重要な手掛かりだ。この〈戻し訳〉はウェイリーの脳裡(のうり)にひろがった『源氏物語』の様態を伝えるだけでなく、文体と文章のテンポなどに現在だからこそ可能なかたちを展開していて楽しい。
 ゲンジが忍んで来ることを察知し、いち早く部屋から逃げたウツセミが脱ぎ残したものを、ウェイリーは「スカーフ」にした。訳文は「ウツセミが逃げ去るときに肩から落としていった、薄絹の一枚でした」。紫式部の原作では「小袿(こうちぎ)」だ。
 今回の訳では、全体的に和歌が補われている。それで、たとえば「逢ふまでの形見ばかりと見しほどに、ひたすら袖の朽ちにけるかな」というゲンジからウツセミへ贈られた歌は、小袿の袖を表しているので、スカーフとの隔たりが生じている。この隔たりに私はむしろ心打たれた。ウェイリー訳と今回の〈戻し訳〉とが手を携えた成果は、一見亀裂とも見えるこうした箇所から見えてくる。昨年刊行が開始された岩波文庫『源氏物語』は注だけで原文が読める画期的な本だが、その校注者の一人、藤井貞和によって本書の和歌表記の監修が行われている。新しい『源氏物語』が響かせる音色に耳を傾けたい。
    ◇
 英国の東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley 1889~1966)が英訳した紫式部『源氏物語』を日本語に訳し戻した。訳者の毬矢まりえは俳人、森山恵は詩人。2巻は5月に刊行予定。

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