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長く高い壁―The Great Wall [著]浅田次郎

[評者]諸田玲子 (作家)

[掲載]2018年04月07日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■良心も正義もない戦争の「業」

 なんというもどかしさ、なんという歯がゆさか。砂塵(さじん)の舞い立つ道なき道を、あえぎつつ歩いているような……そんな感じ。舞台は日中戦争の最中、北京から密雲(みつうん)へ、さらに張飛嶺(ちょうひれい)へ。匪賊(ひぞく)が出没する荒寥(こうりょう)たる原野を行く。燕山(えんざん)山脈の峻険(しゅんけん)な岩壁を登れば、天翔(か)ける龍のごとく視界のかぎりに万里の長城がのたくっている。幕開きから私は乾いた大地に迷い込んでいた。
 死体(10体も!)があり、探偵(作家)が登場して虚々実々の尋問があり、第二の殺人が起こり、証拠は隠滅されるが最後には事件の真相も明らかになる。本書は堂々たるミステリーである。ところが、犯人捜しの進行とは裏腹に事態は混沌(こんとん)としてゆく。胸をしめつけられるような重苦しい現実があらわになる。本隊から置き去りにされたろくでなしぞろいの分隊、腹蔵だらけで本性をみせない憲兵隊の面々、果てなき大地を身方につけて面従腹背を決め込む現地の人々……陸の孤島のごとき密雲は、戦闘場面こそないが一触即発の危機を孕(はら)んで、ひりついた気配に包まれている。
 著者は「この戦争の大義は怪しい」と断じる。「戦場においては、時として事実と真実は別個のもの」だとも。けれど著者は戦争の不条理を書こうとしたのではあるまい。殺伐とした戦場で巧みに操られる人の心——その動きの不可測さに翻弄(ほんろう)され呑(の)み込まれてしまう人間の業を描こうとしたのではないか。戦争には隠蔽(いんぺい)が付き物。そこには良心も正義もないからだ。
 結末は驚きと諧謔(かいぎゃく)に満ちている。甘ったるい感傷や居心地のよい大団円を排した著者の冷徹なまなざしには、切実な危機感と激しい憤りが潜んでいるように思える。ミステリーをも戦争文学をも超えた本書をなんと呼べばよいのだろう。
 本を閉じた瞬間、戦慄(せんりつ)した。長く高い壁に向かって性懲りもなく混迷の道を歩もうとしているのは、まさに、現代の私たちではないのか……と。
    ◇
 あさだ・じろう 51年生まれ。作家。10年に『終わらざる夏』で毎日出版文化賞、『帰郷』で大佛次郎賞。

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