私の人生で、美味(おい)しいものの記憶はすべて、家族や友人たちの賑(にぎ)やかな声や笑顔とともにあった。記憶のなかの味も食感も、彩りも匂いも湯気も、親しい人びとと過ごした時間や場所と切り離せない。そういう人間はたぶん根っからのグルメではないだろうが、私の人生はそれなりに美味しいものであふれている。ただし、自分で探すのではなく、いつも人に教えてもらって感動すると、今度は自分が友人知人を誘っては、ねえ、美味しいでしょ!と押し売りをしてきただけだけれど。
そんな美味の一つは、ロビンフッドのような森のご馳走(ちそう)。
奈良県と三重県の県境の山間に、いまは亡い両親が四十年ほど前に建てた別荘があり、隣にはいまでいうアウトドアの達人の山小屋があって、三十代の私は家族ともども野趣に富んだ経験をたくさんさせてもらった。日が高いうちに軽トラックで山に入り、荷台いっぱいに杉の間伐材を拾って帰ってくると、庭で大きな焚(たき)火をする。私の父母は五キロほどの豚の肩ロースの塊肉にニンニクをすり込んで粗く塩コショウをし、二・五センチほどの厚さに切り分けて、それを各々(おのおの)がナイフで先を尖(とが)らせた長さ一メートルほどの杉の枝に一枚ずつ刺す。準備はそれだけ。あとは焚火にかざして自分の好きなように肉を焼き、焼けたところから枝に刺したままかぶりつく。
もちろんアルコールは必須で、湧き水で冷やしたビールやワインや泡盛をここぞとばかりに痛飲する。野菜は辺りに自生しているワサビの葉やセリ、クレソン、コゴミ、フキノトウなど。みんな口のまわりを豚の脂でてかてか光らせ、ときどき切れ端を犬にも投げてやりながら、かぶりついては呑(の)み、呑んではかぶりつき、女の私でも三百グラムぐらいはぺろりと平らげている。そして見上げれば頭上は満天の天の川で、またみんなの歓声が上がる。
いまなら豚の塊肉にはローズマリーをまぶすだろうし、クレソンはオリーブオイルと岩塩で食べるかもしれないが、三十年前には私も家族も友人たちも、もっと素朴な舌だったのだろう。それでも、生の杉の香りが移った豚の肩ロースの炙(あぶ)り焼きはたしかに美味だったし、阪神淡路大震災のあった年の暮れに母が死ぬまで、ずっと豪快な夜宴は続いた。
時代は移り変わり、いまでは豚の肩ロースは骨付きラムのロースに変わり、焚火は石窯に変わったが、あのころの豚の脂のぱちぱち爆(は)ぜる音と人びとの賑やかな歓声は、いまもそのへんに響いているような気がする。=朝日新聞2019年4月6日掲載
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