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うどんと正直 内田麟太郎

 小学四年生のころ、家出の計画を立てていた。ねぐらは大牟田市内某所にある横穴。食料は日に三度の素うどん(関東のかけうどん)と、ザリガニと鮒(ふな)などを焼いたものにノビルなど。

 当時、ご近所の天狗(てんぐ)食堂の素うどんは一杯二十円だった。一日三食で六十円。銅線や鉄屑(くず)を集めて売ればなんとかなる。まことに緻密(ちみつ)な計画は、私がかなり優秀な少年であったということだろう。

 だが、この計画は私の小心により実行されなかった。実行されていれば頭の悪い少年が一人、栄養失調で倒れていたことだろう。よかった、よかった。

 それほどに天狗食堂の素うどんはうまかったのである。素といっても、うどんに出汁(だし)がかかっているだけではない。刻んだネギもかまぼこも入っている。このかまぼこが薄い。向こうが見えるとまではいわないが、薄い。その薄さが「かまぼこは高いものである」と主張している。「竹輪よりエライ」といっている。少年が、ゆっくりと大事に、惜しみつつ、食べたのはいうまでもない。

 十九歳で看板屋の見習いになった。住み込みである。うどんが出てきた。一目見たとたん、口には出さねど「うへーっ」となった。(これを食べるのか)。博多うどんは、昆布出汁に薄口醤油(しょうゆ)である。つまり涼しい姿をしている。しかるに目の前のうどんは、これぞ醤油という色の、濃い口醤油の中にふてぶてしく鎮座していた。空腹の青年は腹を満たした。見た目ほど塩っぱくはなかった。

 講演などで福岡へ帰る機会が多い。その度にかならずうどんを食べる。(やっぱり、うどんは西だなぁ)と思う。やわらかい。されどこのやわらかいは、腰がないということではない。あるのだけれども、それと気づかぬほどに、ふるまいがたおやかなのである。薄口醤油の色も、まことに控えめでおくゆかしい。昆布出汁のかすかな甘みも雅(みやび)だ(言い過ぎだなァ)。

 いうまでもなく、これは福岡出身者の身びいきである。公平にははるかに遠い。ののしられても罵倒されてもいいことである。それで、反省しつつ書くのだけれども、関東でも埼玉・加須(かぞ)のうどんはちがう。これはうまい。関東一うまいうどんだと思う。いや、もっとうまいうどんである。寝かせるのも通常の二倍だけれども、もともとおいしい麦がとれる土地なのだ。「地粉である」と堂々と宣言している。

 正直のついでになるけど、博多のうどんよりも、京都のしっぽくうどんがおいしい。美濃焼の織部風丼で、それが運ばれてきたとき、私はもう京都にひれ伏していた。湯葉、板麩(いたふ)、煮付けしいたけ、厚焼きかまぼこ……。

 故郷は遠きにありて泣いていた。=朝日新聞2019年6月29日掲載