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【奈良編】時空を超えた奇譚も、社会派も 文芸評論家・斎藤美奈子

二上山の麓にある当麻寺。東西両塔が見える=奈良県葛城市、全日本写真連盟・酒井智哉さん撮影

 関西の人は定型句のように「奈良には何もないよ」というけれど、全国的に見れば、そこはやっぱり古代ロマンに彩られた憧れの地だ。

 大正7(1918)年、若き日の和辻哲郎も友人数人と連れだって奈良の寺々をめぐる旅に出た。その印象をまとめた本が『古寺巡礼』である(『初版 古寺巡礼』1919年/ちくま学芸文庫)。書名の印象と内容がこれほどズレた本も珍しい。自由奔放、あるいは野放図。脱線も妄想も放言もあり。著者も認める通り、これはまだ20代だった和辻の若さと情熱がほとばしる、かなり言いたい放題の旅行記なのだ。

 シルクロードを通じて大陸とつながり、考古学や神話を介して時間も超える奈良には、人の心も自由にする力があるのかもしれない。ゆえに奈良には奇譚(きたん)が似合う。

 その極北ともいうべき小説が折口信夫死者の書』(1943年/角川ソフィア文庫ほか)だろう。舞台は二上山の麓(ふもと)に位置する葛城市の当麻寺(たいまでら)。東西の三重塔が現存し、和辻も高い関心を寄せた寺である。

 この寺に伝わる曼荼羅(まんだら)を織ったとされる8世紀の中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説を縦糸に、謀反の疑いにより自害した7世紀の大津皇子(おおつのみこ)の史実を横糸に、折口が織り上げたのは100年の時空も、生と死の境も超えた幻想的なラブロマンスだった。岩肌を〈した した した〉と水がしたたり、〈ほほき ほほきい ほほほきい〉とウグイスが鳴き、足音が〈つた つた つた〉と迫る折口ワールド。背筋がゾクッとすること必至である。

 古代の奈良を舞台にしつつも、ぐっとシリアスな社会派ドラマと呼びたいのが澤田瞳子火定(かじょう)』(2017年/PHP文芸文庫)である。

 コロナ禍の渦中にある私たちには他人事(ひとごと)と思えない。モチーフは737年に奈良を襲った天然痘。これは天平のパンデミック小説なのだ。施薬院(貧者のための慈善病院)で働く医師らを中心に、水際作戦の失敗から医療崩壊へと至る過程を物語はシビアに描き出していく。クラスターが発生し、蔵の中に隔離される悲田院(救貧院)の子どもたち。応援の要請に応えない典薬寮(官人の病院)。感染ルートをめぐって広がる外国人差別。カミュ『ペスト』にも似た医療小説としても出色だ。

 現代の奈良はどうだろう。

 万城目(まきめ)学鹿男あをによし』(2007年/幻冬舎文庫)は、『坊っちゃん』の現代版みたいな小説だ。教師経験のない「おれ」が期間限定で奈良の女子高に赴任する。

 とはいえそこは奈良である。「おれ」はある日、大仏殿の裏で人の言葉を話す鹿に話しかけられるのだ。〈さあ、神無月だ――出番だよ、先生〉。1800年前から人を守ってきたという鹿に目をつけられた「おれ」に課せられた、日本を天変地異から救うための任務とは!?

 もう一冊、歴史家が悶絶(もんぜつ)しそうな奇譚が前野ひろみちランボー怒りの改新」(2016年/角川文庫『満月と近鉄』所収)だ。〈推古天皇の御代、トンキン湾事件をきっかけにして蘇我馬子が火蓋(ひぶた)を切ったベトナム戦争は泥沼化し、馬子が世を去ってその息子蝦夷(えみし)の代になっても終息の兆しを見せていなかった〉

 7世紀の大化改新と20世紀のベトナム戦争を合体させた衝撃の力業! ふざけすぎだといわれても、奈良では時空が勝手に歪(ゆが)む。奈良在住作家の徹底したパロディの精神。和辻哲郎も折口信夫も存外おもしろがるんじゃないだろうか。

 今年は「人の世に熱あれ、人間に光あれ」の文言で知られる水平社宣言(1922年)から100年の年に当たる。奈良出身の住井すゑが生涯をかけた『橋のない川』(1961~92年/新潮文庫)は水平社宣言を起草した西光(さいこう)万吉らをモデルにした全7部の大長編小説だ。第1部の舞台は奈良県の架空の集落。明治末期、正義感あふれる11歳の畑中誠太郎、弟の孝二、集落で唯一の中学生・村上秀昭の3人を中心に物語は進行する。静かな怒りとともに描き出される差別された少年の日の原体験。いまこそ読むべき本だろう。

 3月には御所市の水平社博物館もリニューアルオープンした。「人権のふるさと」としての奈良。古都のもうひとつの顔である。=朝日新聞2022年5月7日掲載