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国や時を超えて 文学は、いまを予見する 鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評2023年1月〉

青木野枝 ひかりのやま5

 軍事予算が増強される一方、学術技術への補助金は削減されるこの国では近年、才能・頭脳の海外流出が止まらないという。昔、洋行した文人は帰国後、その成果を創作や翻訳を通じて日本語文化に還元した。そうした文化交信の先に大江健三郎、中上健次、村上春樹などの小説家も生まれ、またその作品が海外でも読まれるという循環を形成したが、今後は国外に出て他国語で書く作家も増えていくかもしれない。

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 その逆に米国に生まれ日本語で創作するリービ英雄の30年ほど前の随筆を最近まとめて読んで驚いた。「グローバル」が流行(はや)る以前に世界文学の流れを精確(せいかく)に見通し、こんなことも書いている。「日本の場合、ほんとうの国際化とは、日本から外に渡っていくことではなくて、むしろ外から渡ってきたひと、あるいはこれから渡ってこようとするひとをどう受け入れるかという問題だと思うんです」(「混血児のごとく」)

 永らく日本にとって国際化とは、外国へ、外国語の中へ「出ていく」ことを主に指した。逆に日本語を外部に開放することにかけては、未(いま)だに懐疑的な傾向がありそうだが、国と人種と言語を一直線に捉える意識には刷新が必要だろう。

 リービは異言語にふれることに「言葉が幸(さき)はふ」感覚をもったというが、高遠弘美編『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』(素粒社)を読むことは、言の葉のもたらす快さに思うさま浴することだ。昭和初期に英語学者の夫に同行して欧米を広く旅した晴子も、予見にみちた洞察を記し、英訳が国外で評価された一人である。体力の弱い女こそ楽に動ける装いであるべきなのに「ハイヒールの竹馬」に乗らされているとか、体にぴったりの婦人服が流行るから「ポケット全廃」になって不便だという批判は、現代の主張そのものだ。

 スペイン革命直後の首府で闘牛を見る随筆にも感銘を受けた。あのミシェル・レリスが闘牛の美を語る『闘牛鑑』に先立つこと数年、観念ではない肉声によるコリーダがそこにはある。しかし中毒性のある闘牛観戦の片手間での革命など、「いったんの政治革命に過ぎない」と、この革命の先行きを占い、将来の闘牛廃止を予告している。

 時は大戦間のころだ。ベルリンで第1次大戦戦死者の墓を参った折、弔いの炎を見て、「むしろ国と人との怨念の炎(ほむら)と見えて凄(すさま)じい。〈中略〉またも渦巻く劫火(ごうか)となって世界を焼く機を覗(うかが)っているごとき火」と予言するくだりには、首筋が粟立(あわだ)った。

 黒人文学の魁(さきがけ)として「ブラックパワー」の語を生んだリチャード・ライトの再評価の流れにも注目したい。過激な展開の削除を復元した原版『ネイティヴ・サン』(上岡伸雄訳、新潮文庫)の邦訳が80年余りの時を経て刊行された。

 本作は1930年代、雇い先の白人の娘を誤って殺した黒人青年の逃亡と裁判の行方を描くが、黒人を無力かつ怪物化し文学性を殺(そ)いでいるなどの批判もあった。しかし一昨年、黒人青年が冤罪(えんざい)の末に白人警官らに射殺されるという未発表原稿が出版されると、作家への評価が変わった。

 『ネイティヴ・サン』には既に現在の格差社会の構図とアメリカンドリームの終焉(しゅうえん)が告げられている。終盤、高層ビルを見ながら白人弁護士は青年に言う。ああいうビルは夢見る人びとの願いで成長したが、もうその成長は止まった。「数人の人が手でしっかりと掴(つか)んでしまったから」だと。社会正義の議論が深まる今こそ、より良い読み手を得られることを願う。

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 文学には過去を振り返り内観する働きもある。今回の芥川賞作『荒地の家族』(新潮社)で、佐藤厚志は自ら経験した東日本大震災に10年余りを経て正面から取り組んだ。前作『象の皮膚』では客や上司に負わされる日々の傷と大震災という歴史的な悲劇をあえて並置し、痛みの本質について問うたが、本作では被災は中景にずっしりと据えられる。

 高校の部活顧問のパワハラに始まる主人公の道ゆきは険しく、ようやく植木職人として独立した矢先に道具一式を津波に浚(さら)われた。妻は心労がたたり、衰弱した末に感染症に罹(かか)る。主人公は再婚するが、夫婦の気持ちは行き違う。

 人びとが震災から被った有形無形の傷と痛みが、雄弁とは言えない反復の多い文章で綴(つづ)られていく。その繰り言と非効率さに、生き迷う人たちの足取りを痛切に感じさせた。一作ごとの伸長がめざましい。=朝日新聞2023年1月25日掲載