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非核世界への挑戦 なぜ「廃絶」に近づけないのか

ノーベル平和賞が決まり、記者会見に臨むICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のフィン事務局長(左)とスタッフ=10月6日、スイス・ジュネーブ

 「核戦争に勝者はなく、また、核戦争は決して戦われてはならない」。1985年、レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長がジュネーブでの首脳会談共同声明に盛り込んだ至言。ただ実は、これが初出ではない。83年に来日したレーガンが国会演説で発したメッセージだ。広島、長崎を念頭に置いた渾身(こんしん)の一文だった。
 レーガンは「軍拡の大統領」とのイメージが強かった。だが、近年の研究で核廃絶論者だったことがわかってきた。元側近の一人は、「仮にモスクワが米国を核攻撃しても、大統領はすぐさま核報復を命じなかったかも知れない」と私に語った。レーガンにはそれほどに、核使用が非人道的に映っていたということだろう。
 そのレーガンも、さらには米国の現職大統領として初めて広島を訪問したオバマも、なぜもっと核廃絶に近づけなかったのか。今年7月に核兵器禁止条約が採択され、その偉業に貢献した国際NGO「ICAN(アイキャン)」にノーベル平和賞が贈られる。一方で北朝鮮の核開発で北東アジアの緊張感は高まっている。なぜ、現実を理想に近づけるのがこんなにも困難なのか。

効果を過大評価

 端的に言えば、核兵器による戦争抑止効果、とくに核戦争抑止効果への信奉と依存が根強いからだ。だが果たして、依存路線は確たる根拠に基づくものなのか。核軍縮研究者のウォード・ウィルソンの『核兵器をめぐる5つの神話』は、核抑止への過大評価を矢継ぎ早に批判する。
 たとえば、世界大戦のない冷戦期の「長い平和」は核抑止のおかげとの説に疑問をぶつける。大戦への反省や、戦後の経済的相互依存の進展、同盟関係の強化、条約・国際機関の発展なども戦争防止に貢献してきた。にもかかわらず、「長い平和」=核抑止の賜物(たまもの)と決めつけるのは強引だと論駁(ろんばく)する。
 冒頭の至言に強く共感したゴルバチョフも、核抑止の効用よりもリスクを明確に認識していた指導者だ。核時代の転機を検証した『冷戦終結の真実と21世紀の危機』は、86年のアイスランドのレイキャビクでの米ソ首脳会談を重く見る。本気で非核世界を標榜(ひょうぼう)した二人は合意寸前まで進んだが、ミサイル防衛問題で一致せず、核廃棄は幻に終わった。それでも、「地平線の彼方(かなた)」を見たゴルバチョフは核軍縮努力を続け、それが冷戦終結への導火線ともなった。
 核廃絶を期限つきで先に提案したのはゴルバチョフの方だった。レーガンの元側近は「まさに試合の流れを変える一球だった」とふり返る。レーガンが核廃絶へ動き出せるようになったのもゴルバチョフあればこそで、いかに指導者の政治的決意が時代の転換に重要かを物語る。

一歩でも努力を

 レーガンとともに核廃絶を模索したシュルツ元国務長官は07年、元政府・議会の要人3人とともに「核なき世界」を目指すべきだとの論考を新聞に載せた。その中の一人が、クリントン政権で国防長官をつとめたウィリアム・ペリーで、『核なき世界を求めて』は彼の自叙伝だ。国防長官に就任した時から、「核全廃に一歩でも近づく努力をする」と周囲に語っていた。離任後に広島を訪れて非核世界への決意は強まり、「二度と地球上で使われるべきではない」と胸に焼きつけた。
 「黒船」を率いたペリー提督は、5世代前の伯父にあたる。ペリー一族と日本の、数奇とも思える縁。「たとえ小さくても確かな一歩を前に踏み出さなければ、永遠にゴールに到達することはできない。だから、私は『核なき世界』を求めて歩きつづける。今日も、そして明日も……」。90歳を迎えた今も「地平線の彼方」を見すえ、次世代に熱く語りかけている=朝日新聞2017年11月19日掲載