ひもとく

人体 「あなた自身」について探求を 布施英利

2018年05月05日

19世紀の紙粘土製の人体模型「キンストレーキ」=東京・上野の国立科学博物館の特別展「人体」(6月17日まで)

 東京の国立科学博物館で特別展「人体」が、横浜美術館では「ヌード」展が開催中だ。この春は、科学もアートも、人体が流行(はや)りだ。そこで「人体」にまつわる本を取り上げてみたい。
 まずは解剖学者・養老孟司の『身体巡礼』。大学の職を離れ自由の身になった養老先生が、ヨーロッパに骸骨やミイラ、それに墓を見に旅した話だ。チェコ・オーストリアなどをめぐる旅だが、続編にイタリア・フランスなどを巡る『骸骨考』(新潮社・1620円)もある。

■じっくり見る

 骸骨や死体というのは、幽霊やゾンビなどのイメージとも結びつき、怖いと思う人もいるかもしれない。私は若い頃、医学部の解剖学教室で研究生活を送っていたので(つまり養老先生の下で)、ずいぶん多くの死体を見た。たしかに、怖いと思ったこともあった。しかしそれは「見えない」時だ。白い布に包まれた解剖体が台の上に並んでいる。しかも雨の日の夜に自分一人だったりする。そんな時、ある気配を感じてゾッとした。あまりに怖いので、試しに布に包まれた中を覗(のぞ)いて見た。すると、そこにあるのは、いつもの解剖体で、ホッと安心した。見えないから怖い、妄想が膨らむ。見れば、それは一つの現実でしかない。例えば自分の手を眺める。死体はそれと同じ「人体」で、死んでいて動かないという違いがあるくらいだ。養老先生は『身体巡礼』で「じつは実際の死体より、話や映画に登場する化けもののほうが、はるかに怖い。両方見ている私がいうのだから、間違いない」と書く。その通りだ。ともあれ、人体をじっくり「見る」ことは大切だ。
 養老先生は既に何千という数の死体に立ち会ってきた人だ。先生は死は自然だと考える。「いまだに死だけは自然だと見なされざるを得ない」と。最新医学の力で人の寿命は延びても、いつか死ぬことに変わりはない。骸骨を見、墓巡りをしながら「生命の消えた身体をどう扱うか——そこに現れる表象こそ、その文化社会のもつ『身体性』だ」。
 解剖学者の思索の旅は続く。

■進化を物語る

 さて、死があれば生がある。科学があればアートもある。そこで人の誕生をテーマにした『〈妊婦〉アート論』も取り上げたい。これは美術家の菅実花(かんみか)の現代アート作品「ラブドールは胎児の夢を見るか?」をきっかけにして複数の著者によって纏(まと)められた論考だ。菅は、性的愛玩用の人形ラブドールの腹部を改変し、妊婦の体形をした人体像を作り出す。それは先史時代のヴィーナス像の地母神(ちぼしん)にも似て、あるいはアンドロイドや人工知能などSF的な未来の人体のイメージにも重なる姿だ。まるで映画「ブレードランナー2049」のような世界でもある。
 菅実花の作品が芸術家の想像力によって未来の人体を垣間見るものなら、過去の人体への探究もある。つまり進化の歴史の話だ。今、ここにある人体は、はじめからこういう形や構造をしていたわけではなく、進化の果てに出来上がった。では、いったい、どんな進化があったのか? 『人体600万年史』には、あなたの身体は「魚だったとき、サルだったとき、類人猿だったとき、アウストラロピテクスだったとき、そしてずっと最近の農耕牧畜民だったときに、その生存と繁殖を助けるために選択されたものなのだ」と書かれる。人体は、いわば進化の記憶の結晶でもある。例えば、知性はヒトが二本足で立ったことの副産物に過ぎない、ということが言われたりするが、この本には、サルからヒトへの進化の過程で、体にどのような変化が起こったのか、そんな進化の物語が説明されたりする。
 これらの本を通して是非、「あなた自身」である人体、について考えてみて頂ければと思う。

    ◇
ふせ・ひでと 解剖学者、美術批評家 60年生まれ。著書に『脳の中の美術館』『人体 5億年の記憶』ほか。

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