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終わらざる夏〈上・下〉 [著]浅田次郎

[評者]

[掲載]2010年08月29日

[ジャンル]歴史 文芸

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■終戦後始まった占守島での死闘

 昭和20年8月15日、天皇の「聖断」によって戦争は終わり、戦後が始まった。しかし、北辺の地、千島列島の先端にある国境の小さな島、占守(シュムシュ)島では、まさしく戦端が開かれようとしていたのだ。戦争が終わるとき、戦争が始まる。この大いなる矛盾が、戦う兵、死にゆく兵たちを巻き込んで炸裂(さくれつ)するとき、戦争の禍々(まがまが)しさと非情さ、そして愚かさが胸を打つ。
 それにしても、なぜ彼らは無条件降伏を受け入れた国家の意思に反して戦ったのか。明らかに国家に対する反逆であった。しかし彼らには反逆者としての翳(かげ)りなど微塵(みじん)もない。天皇のため、国家のためではなく、「ふるさと」のため、愛する者のために戦おうとしたからだ。物語は、この辺境の島に奇跡的にも温存された精鋭部隊に配属される3人の臨時召集の補充兵を中心に、彼らの妻や子供、母親や縁者、教師や友人たちの運命を重層的に描いていく。
 岩手県を本籍地とする3人の補充兵のうち、翻訳出版社の編集長である片岡直哉は、召集年限ぎりぎりの45歳の「一老兵」であり、取りえと言えば「敵性言語」の英語に通じていることくらいだ。奇妙なことにこの片岡と合流したのは、軍医の菊池忠彦であり、歴戦の強者(つわもの)として名を轟(とどろ)かせていた輜重(しちょう)兵の鬼軍曹、富永熊男(鬼熊)だった。戦争が終われば、ヘンリー・ミラーの「セクサス」をとっておきの美しい日本語で翻訳したいと願う片岡。戦争を憎み、「聖戦」の虚言を否定する菊池。そして大本営だけでなく、「こんな戦争」を続けている「お国」そのものが「ぬげさぐ」だと公言してはばからない鬼熊。三者三様ではあるが、彼らの胸中深く根を張った戦争を忌み嫌う気持ちは隠しがたい。
 しかし、その彼らが、「得体(えたい)の知れない神」のような大本営の、国家の仕業によって、その運命の正体を知らされないまま、死闘を演じることになるのだ。しかも、敵は、驚くべきことに米国ではなかった。何と占守島とは指呼の近さにあるカムチャツカから攻めてくるソ連軍だったのだ。国家という神はここでも躓(つまず)いた。そして明らかにされる片岡に授けられていた「運命の正体」とは。「特業」(特別技能)の菊池や鬼熊は何のために召集されたのか。
 物語の結末は、彼らが理不尽にも抑留されることになった酷寒のシベリアの強制収容所(ラーゲリ)にある。すべてが徒労のなかでうち沈んでいく。しかし、凍(い)てつくような悲しみを癒(いや)す「間奏曲」のように聞こえるコサックの兵士、サーシャの独白。夢か現(うつつ)か、サーシャの魂は時空を超え、片岡の妻子の前に姿を現し、愛を授け、また死にゆく兵隊たちに寄り添うのである。それは、まさしく歴史の天使のように、人々の魂をやさしく揺り動かす。愛こそが、すべてに勝っていると。片岡が残した「セクサス」の詩のように美しい言葉が哀切を誘う。悲しくも、切々と胸に染みる愛の言葉。静かな、しかし深い感動が尾を引く。
 評・姜尚中(東京大学教授・政治思想史)
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 集英社・各1785円/あさだ・じろう 1951年、東京都生まれ。95年『地下鉄(メトロ)に乗って』で吉川英治文学新人賞、97年『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、2008年『中原の虹』で吉川英治文学賞など。

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