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『治安維持法の「現場」』書評 司法の各段階で解明 全体像へ

評者: 戸邉秀明 / 朝⽇新聞掲載:2021年08月07日
治安維持法の歴史 1 治安維持法の「現場」 著者:荻野 富士夫 出版社:六花出版 ジャンル:刑法・刑法各論

ISBN: 9784866171340
発売⽇:
サイズ: 21cm/361p

『治安維持法の「現場」』 [著]荻野富士夫

 法律は時として、法の名の下で人権蹂躙(じゅうりん)を国家に許す。敗戦まで20年に及ぶ治安維持法の歴史は、その最たるもの。「国体」変革を目指す動きに関係ありと官憲が見なせば、強引な理屈で断罪された。当初の目的である共産党の弾圧を超えて、戦時中には教育・宗教の小集団や学生の読書会さえ標的になった。
 暴力の凄(すさ)まじさは、小林多喜二を虐殺した特高警察の拷問に象徴される。だがそれも、この法の運用のあくまで一部分だ。そこで研究の第一人者が、植民地への適用を含めた全体像を5冊で書き下ろすという。
 その初巻で、なぜ「現場」か。本書は検挙・取調(とりしらべ)・起訴・予審・公判・行刑という司法「処理」の全段階をたどり、関わった各々の役割や、濫用(らんよう)が昂(こう)じる過程を解き明かす。晦渋(かいじゅう)な司法文書の山から、システムを動かした者、翻弄(ほんろう)された者の肉声がよみがえる。
 特に教えられたのは、思想検事の重要性だ。特高警察を手足に使い、摘発を主導した。判事の予審訊問(じんもん)も、被疑者の自白の誘導や改竄(かいざん)で固めた検察調書に頼りきりだった。「思想戦の戦士」たる自負心や秩序崩壊への恐怖心、そしてエリートの傲慢(ごう・まん)さ。組織の影に隠れる者を許さぬとばかりに、彼らの発言と名前のいちいちを、著者は書き込む。
 公判での弁護士の果敢な弁論も、少数ながら深く心に残る。鈴木義男や高田富与らは、戦時下の危険を顧みず、「政治の奴婢(ぬひ)」に墜(お)ちた司法を堂々と批判し、無罪を勝ち取った。鈴木はこれを教訓に、後に日本国憲法案を審議した際、国家賠償や刑事補償の請求権の条文追加を実現させる。
 恐ろしいことに、戦後も犠牲者への補償や名誉回復はなかった。思想検事は組織的に証拠を隠滅して公職追放を免れる。無駄・無謀・無反省の累積は、予断による捜査や冤罪(えんざい)となって今日まで後を絶たない。先日成立した土地規制法の曖昧(あい・まい)な条文を見ても、本書の内容は決して昔話ではない。
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おぎの・ふじお 1953年生まれ。小樽商科大名誉教授(日本近現代史)。著書に『特高警察体制史』『思想検事』など。