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ニールス・ボーア「因果性と相補性」 量子論が投げかけた問い

Niels Bohr(1885~1962)。デンマークの理論物理学者 写真:Universal Images Group/アフロ

大澤真幸が読む

 この二百年の学問の歴史の中で最大の知的革新、それは量子論の登場にある。量子論は、物理学の基礎理論で、二十世紀の前半、特に戦間期に何人もの物理学者の手によって次第にその姿を整えていった。この運動の中心にいたのが、ニールス・ボーアだ。量子論を認めなかったアインシュタインとの間の論争でも知られている。

 以前から光は一種の波であることがわかっていた。回折・干渉など波としての現象を引き起こす。ところが、光は粒だと考えないと説明できないこともある、とわかった。逆に電子は粒だが、波のようにふるまうこともあると明らかになった。

 粒であることと波であることとは矛盾する。例えば粒は同じ場所に二つ同時にいることは不可能だが、波は二つが重なって強めあったり弱めあったりする。物質はしかし究極的には粒であり波である。西田哲学風にいえば、絶対矛盾的自己同一。これを認めるのが量子論である。ボーアは波/粒の排他的な状態の二重性を「相補性」と呼んだ。

 そんなに奇妙なら、波かつ粒のその物がどんな状態なのか見てみればよいではないか。が、それがうまくいかない。観測したとたんに、波であったはずのものが粒になるからだ。波が粒へと凝縮されていく様が見えるわけではない。すでに粒になってしまっているのだ。

 ということは、どういうことか。光なり、電子なりが、自分が見られることを知っていた、かのようなのだ。無論そんなことはありえない。が、とにかくこうなると、観測とは独立した物の客観的な性質や存在について云々(うんぬん)できない、ということになる。

 このように量子論が提起したのは、答えでなく哲学的な問いである。そもそも存在とは何か、と。私たちは、人が観測するかとは無関係に物は実在すると考える。実際そのはず。しかし観測から独立に存在が定義できないとするとどうなるのか。量子論の謎は、神から人間への致死性の毒が入った贈り物ではないか、と思うことがある。=朝日新聞2022年3月19日掲載