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「虎の血」書評 球史の空白に残る数奇なドラマ

評者: 稲泉連 / 朝⽇新聞掲載:2024年03月30日
虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督 著者:村瀬 秀信 出版社:集英社 ジャンル:スポーツ

ISBN: 9784087901498
発売⽇: 2024/02/05
サイズ: 19cm/319p

「虎の血」 [著]村瀬秀信

 今から70年近く前の1955年。プロ野球・大阪タイガース(現・阪神)の監督に、「岸一郎」なる人物が就任したことがあった。
 「誰やねん」
 前年、阪神電鉄社長の球団オーナー・野田誠三に呼び出された球団幹部は、通達を受けた際にそう思ったという。
 阪神タイガースの歴史において、大きな謎に包まれた第8代監督――この岸一郎とはいったい何者だったのか。本書は球史に〈エアポケット〉のように残されたその「ミステリー」を、溢(あふ)れんばかりの野球愛と綿密な取材によって追った一冊である。
 岸はすでに還暦を過ぎ、プロ野球の経験はなし。それまでは敦賀で農業をしていたという。そんな人物が監督に抜擢(ばってき)された背景には、彼が独自の「チーム改革案」をオーナーに手紙で送ったことがきっかけだった、との説もある。
 だが、そのような「謎の老人」を選手が素直に受け入れるわけもなく、「ミスタータイガース」こと藤村富美男ら主力選手たちは岸の存在を無視。彼はわずか33試合で監督を降板することになった。
 突如として現れた「謎の監督」の語る方針や采配に右往左往するチームの混乱を読んでいると、組織のマネジメントやリーダーのあり方といった、様々なテーマについても考えさせられる。岸が残した爪痕を、後に続くタイガースの「お家騒動」の中に見る著者の視点にも奥が深いものがあった。
 そして、「1955年のタイガース」の混乱を踏まえた上で、光を当てられる岸自身の来歴が興味深い。
 そこに立ち現れる、戦前の旧満州で投手として活躍した若かりし頃の彼の生き方には、どこか憎めない型破りな魅力を感じさせるものがある。一人の「謎」の野球人の歩んだ道程を軽快に描き、野球史の空白に見出(みいだ)されていく数奇なドラマに惹(ひ)きつけられるノンフィクションだ。
    ◇
むらせ・ひでのぶ 1975年生まれ。ノンフィクション作家。著書に『止めたバットでツーベース』など。