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老人賭博 [著]松尾スズキ

[評者]穂村弘(歌人)

[掲載]2010年02月21日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■読者に感動許さぬ登場人物たち

 感動モノが嫌だ。本でも映画でも、感動モノじゃないだろうな、とまず疑いの目を向ける。感動が嫌いなのか、というとそうではない。むしろその逆だ。でも、感動モノで感動するのは嫌なのだ。私の感動水準はそんなに高くない。巧みにツボを押されれば、あっさり感動してしまうだろう。だからこそ感動モノに警戒心をもつ。
 感動モノで感動した後、本を閉じたり映画館を出たりすると、そこにはいつもの自分の日常がある。ぼんやりしてぬるくて曖昧(あいまい)で妙に白っぽい世界。ついさっき自分のなかに生まれた感動と「ここ」の関係がよくわからない。感動の「味」が強すぎて現実世界はさらに白っぽくなった気がする。あの感動は一体なんだったんだろう。
 『老人賭博』を読みながら、不思議な気持ちになった。作者が感動のツボを避けまくっているのだ。感動モノの多くは「大切な人の命」のような絶対的な切り札を使って読者や観客の心を追いつめてゆく。だが、この作者は切り札をどんどん捨ててしまうのだ。「心の触れ合い」「仕事への思い」「人生の一発逆転」……、本来はさまざまな感動要素が含まれた物語なのに、登場人物が目先の欲望に負けたりおかしな見栄(みえ)を張ったり小さな裏切りを働いたりすることで、読者に感動を許さない。
 彼らの発言はこうだ。
 「俺(おれ)にとっての1万3千円はな、普通の人間にとっての2万5千円くらいなんだ多分」
 「……あとなあ、俺はヤマザキだ。ヤマサキじゃない! 別に間違ってもいいけど、だったらときどきヤマザキって言うな!」
 思わず笑ってしまう。感動からあまりにも遠すぎて逆に感動する。
 感動モノが「大切な人の命」的な切り札で読者を物語の内部に追い込むのとは逆に、本書はこのような反「感動」によって、読者を物語の外に追い出してしまう。そこには広大で意味不明な私たちの現実が広がっているのだ。よくわからないけど、「ここ」でもがいてみようと思う。
 評・穂村弘(歌人)
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 文芸春秋・1400円/まつお・すずき 62年生まれ。作家、演出家、劇作家、俳優。『宗教が往(い)く』など。

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