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ある日の画家—それぞれの時 [著]酒井忠康

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2015年04月19日

[ジャンル]文芸 人文

表紙画像

■能の旅僧のごとく、想いの丈引き出す

 画家に転向した35年前、美術評論家の故・東野芳明氏に「君は今の美術的動向しか知らない」と頭から水を浴びせられたことがあって、あわを食って西洋美術史を繙(ひもと)いたものだ。そして今、日本戦後美術について書かれた本書にも再び首が竦(すく)む思いである。(前記東野さんも日本美術にはうとかったけどね)。
 まあ、いいや。本書では画家の生活(人生)と作品を分離して作品至上主義的に自律した美術批評を主張する人たちに対して、著者は一貫して、関心を抱く作家の人と作品を分離させず、むしろ両者の一体化を模索することで「極端に走る」のではなく、中庸というか両義性を保とうとする。特に麻生三郎に顕著だが、著者は美術の「外とのかかわり」で画家との交流を深化させる。
 それには著者が文学への造詣(ぞうけい)が深いことも一役買っていて、各所に文学者の言葉が絶妙に引用されるのは愉(たの)しい趣向だ。
 さらに絵画と文学の間に横たわる物語に著者は注目する。人間の存在のあり方と世界の構造自体が物語を核として形成されていることを考えれば、ロマン派に限らず人は生死の輪廻(りんね)の物語から脱却できないのではないだろうか。
 著者は物語を求めて旅を続ける。興味を抱く作家がいれば、労苦をいとわずどこへでも旅人になる。僕は特にこの旅人に興味を持つ。そんな旅人を僕は能の旅の僧であるワキの姿と重ねる。
 能のワキはシテの前では自己を語ることが少なく、むしろ相手から言葉を引き出す手助け役になる。この場合シテはいうまでもなく、画家その人である。ワキである著者にとって画家は異界の住人だ。ワキはもともと生者であるが、シテは幽冥世界の死者である。現実側の著者が画家に会うことは「一刻」の夢幻体験でもあろうか。
 その時シテは絵の中で想(おも)いの丈を吐き出しながら舞を舞う。実際に訪問を受けた画家の描く世界は時に「仏教世界」であり、「幻想的世界」であり、「魔術的」であり、「霊性の沼」であり、と、能の主題を髣髴(ほうふつ)とさせる。
 さて、現実世界に戻ろう。前記の麻生、宮崎進、そして著者の「食わず嫌いだった」岡本太郎を含め、「批評の垣根」を越えて画家たちの多義的な側面が、著者の洗練されて高密度な軽やかなスベスベした言語空間の中でその寛容さを示す。
 最後に現代美術の可能性をパリ、ニューヨークで探り続けた堂本尚郎は「より根源的」に向かいながら絵画の可能性の「選択」をしてきたが、彼の遺伝子は今日の日本の現代美術の中で如何(いか)に還元されていくのだろうか。
    ◇
 未知谷・4320円/さかい・ただやす 41年生まれ。神奈川県立近代美術館長を経て、世田谷美術館長。美術批評家。著書に『若林奮 犬になった彫刻家』『彫刻の庭』『早世の天才画家』『ダニ・カラヴァン』『覚書幕末・明治の美術』など。

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