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リトル・ボーイ [著]マリーナ・ペレサグア

[評者]中村和恵(詩人・明治大学教授・比較文学)

[掲載]2016年07月24日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■遠い被爆体験、新世代が描く

 七十年経ち、反省の時代は終わった。そんなジェスチャーが目につくいま、先の大戦はいかに語られるのか。ことばの姿勢が新たに問われる現状の文脈は、やむをえずグローバルだ。すべてのことはつながっている。わたしたちはみなよくも悪くもこの状況の当事者だ。断片化・商品化して流通するイメージはときにひどく無神経だが、断片の連なりに血が通えば、遠い人の話が自分のことになる。
 この短編集の表題作、スペイン出身の女性作家が書いた広島をめぐる物語を読み、そんなことを考えた。
 宇都宮のアパートで、語り手は広島出身の隣人Hと知り合いになる。米国暮らしが長く英語が話せるHから、語り手は彼女の特異な人生の物語を聞く。被爆体験だけでない、人にいえない秘密を。ことばにできないことをスクリーンに映せたら、というHに代わり、語り手はHの体験を映像として想像する。子どもが欲しかったというHの想(おも)いは、爆弾と胎児が重なり合うイメージで描写される。
 語りえない体験を前に、かつての重い沈黙ではなくスクリーンの向こう側で壮大に展開する、悲惨な映像がある。ことばが現実とのつながりから離れ、生々しい声と寓話(ぐうわ)の間にすべり落ちるような感覚。
 そんな印象を胸に、時代や設定も多様な、変わった味わいの短編群を読み進めていく。性・身体・生命の感覚を憑(つ)かれたように確かめる、語り手たちの不安。ふと顔をのぞかせる暴力性。親子の確執、そして死。
 表題作に戻ると、この作家の日本イメージの源に日本の漫画や映画があることにあらためて気づく。作中には映画「おくりびと」や六花チヨの漫画『IS〜男でも女でもない性〜』への言及がある。原子爆弾から臍(へそ)の緒が垂れ下がるイメージは、九〇年代以降海外でも評価の高い大友克洋『AKIRA』を彷彿(ほうふつ)させる。デュラスとは明らかに異なる、新しい世代のヨーロッパが想像するヒロシマだ。
    ◇
 Marina Perezagua 78年、スペイン生まれ。小説家。米ニューヨーク在住。日本語訳は本作が初めて。

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