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「白鶴亮翅」書評 異国の隣人たち 心の窓が開く

評者: 山内マリコ / 朝⽇新聞掲載:2023年07月08日
白鶴亮翅 著者:多和田 葉子 出版社:朝日新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784022519047
発売⽇: 2023/05/08
サイズ: 20cm/276p

「白鶴亮翅」 [著]多和田葉子

 外国に住んだことのある人から、その国の事情や体験談を聞くのは楽しい。それらは一カ所にとどまる私の、ともすれば黴(か)びやすい心に風を通してくれる。
 本書は、ドイツに拠点を移して40年以上になる作家が、ベルリンのとある地区に引っ越したばかりのミサを主人公に、その日常を淡々と追った物語だ。夫の留学にくっついてドイツに来た彼女は、なんやかんやと理由をこじつけて、一人この国に留(とど)まっている。
 居心地の良さは、隣人との距離感。「友人」と言い切ると選別したニュアンスが漂い、「知人」では少し冷たい感じがしてしまう。この小説に次から次へと現れるのは、それほど深い仲でもない、互いに共通点で結ばれているわけでもない、しかし縁あって出会い日常を緩やかに共にしている人々である。彼らは一人として同じ人種ではない。みんな移民なのだ。
 おそらく移民であるからこそ、他者に対して心を開いて生きている。車椅子の人を歓迎し、困っている人には迷わず声をかける。「太極拳学校に一緒に行ってほしい」というMさんの突飛(とっぴ)な誘いにも、ミサは戸惑いつつ乗る。個々の気分が世間の空気を作るとするなら、この街にはどんな人でも受け入れるウェルカムな空気があり、小説はそれを微細に描き込んでいく。
 読んでいる間ずっと、部屋の窓を開けているみたいだった。真顔で冗談を飛ばすような低温のユーモアが冴(さ)え、何度も笑った。心地のいい穏やかな読書だが、その窓から不意に、プルーセン人という静かに滅んでいった民族や、東プロイセンの重層的な歴史が投げかけられる。戦争に次ぐ戦争。忙(せわ)しなく動く国境。民族という定義の曖昧(あいまい)さ。
 「自分が無知のまま世界史の中に放り込まれているという焦り」は、日本から一歩も出ない限り、味わわずに済むだろう。けれどそれでは、戦禍を被る国々、遠くの隣人たちへの、窓を閉ざすことになる。
   ◇
たわだ・ようこ 1960年生まれ。小説家、詩人。日本語と独語で創作。著書に『献灯使』『雲をつかむ話』など。