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手と顔を洗いながら 津村記久子

 風呂の水を残しておくために、二年前にバケツを買った。大量に使うのに、毎日風呂の水を流してしまうことにずっと罪悪感があった。自宅の洗濯機は、外から人力で水を入れると排水されてしまうタイプの製品だったので、洗濯にも使えない。

 とても良い買い物だった。コロナ禍で不本意ながら使ってしまうものというと手洗い用の水だ。ハンドソープで念入りに洗えば洗うほど、手から泡を落とすのに水がいる。コロナウイルスの蔓延(まんえん)そのものが不本意な上に、水をたくさん使うのも不本意だったので、手を洗いながら怒っていることも少なくなかった。それが、バケツに溜(た)めた風呂の水で手を洗うようになるとストレスが減った。水道の水で手を洗っていた時も、洗面台に水を溜めながらだったのだけれども、手首が浸(つ)かるぐらいまで水を溜めるには水量も時間も必要になる。けれども、バケツに溜めた昨日の風呂の水なら、とにかく泡を落とす用途としては十分にある。風呂の水は時間が経てば細菌が増えていくそうなので、泡を落としたら結局最後は水道水で手を濯(すす)ぐ。それでもその水の量は少なくて済む。

 携帯のメモに《絶対的に善な行動》という箇条書きの項目があって、「顔を洗う」「トイレに行く」は最初に書かれている。どちらも水を使う行動だ。トイレはさておき、顔を洗うのはとても好きだ。ただ水でばしゃばしゃするだけなのだが、一日でもっとも気分が楽になる習慣だ。「気持ちいいなあ」と独りでに言っている。一応メイクをして出勤していた会社員の頃と比べると、自宅で自由に顔を洗いながら仕事ができることだけはすばらしいと思う。

 洗面台に少し水を溜めて顔を洗いながら、夕方に見た能登の被災地の水不足のニュースのことを考える。自分は好きな時に顔を洗ったりトイレに行ったりできるが、そうではない人たちが今たくさんいる。手を洗いながら、頭を洗いながら、能登の人たちのことを思い出す。早く元の暮らしに戻られることを切に祈る。=朝日新聞2024年2月14日掲載