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大都会、不自由さ脱ぎ捨てて 青来有一

イラスト・竹田明日香

 二重橋の上は空がぽっかりと抜けたような青。旅行カバンは重かったのですが、早春の陽気に少し歩きたくなりました。帰りの飛行機は夕刻、時間もまたぽっかりと空いています。

 皇居を1周してみようと思いつきました。1周5キロ、約1時間。今まで歩いたことはありません。東京での移動はどうしても地下鉄が多くなります。ロンドンでは地下鉄をチューブといいますが、車内から窓の外を流れていく黒い壁をぼんやり見ていると確かに地下に張り巡らされた管を移動しているようにも感じます。

 スマホを見たり、眼(め)をつむったり、自分を閉ざし、だれかと目が合っても見て見ぬふりをする。薄情と感じる時もあるかもしれませんが、人口が密集した巨大都市での他人との距離の保ち方なのでしょう。

 二重橋から左に歩いたら、桜田門がすぐに見えました。ランニングをする人々が続々と走ってきます。皇居ランナーは反時計回りに走るという暗黙のルールがあるそうですが、ウォーカーはそれほど厳密ではないようです。濠の外へと橋を渡ったら国会議事堂が見え、三宅坂を上り、国立劇場の前を通り、半蔵門を過ぎて千鳥ケ淵公園。ここからの眺めは、まるでダム湖畔。水面には彫りものの跡のような細かな波が刻まれ、なかなかの絶景です。

 代官町通りを歩き、赤レンガの建物は旧東京国立近代美術館工芸館、今は美術館の分室だそうです。乾門(いぬいもん)前の鉄の門扉は閉まり、警備員が立っていましたが、奥に門が見えたので、門前で一枚写真を撮りました。道路からそれて一台の黒塗りの大型車が威嚇するように近づいてきたのはその時で、やはり門前に停車して車内から乾門を撮影しているようです。

 横柄な黒塗りにむっとしていたら、プチンと電源スイッチが入る音がして、「門前は駐停車禁止です、すみやかに移動してください」とスピーカーから警告。黒塗りはあたふたと去り、ちょっとうっぷんが晴れましたが、皇居の厳重な警備を肌で感じました。

 大都会の真ん中にぽっかりと広大な森がひろがり、皇室の方々が暮らしておられますが、守られていながら、とらわれているようにも感じました。もちろん、自由気ままに外に出ることもできないでしょう。

 天皇、皇族は「国民」ですが、「基本的人権の保障」はないというのが、憲法学の一般的な考え方だそうです。昭和天皇は人間宣言をされましたが、国民とまったく同じ自由を生きるわけにはいかない。

 皇室にお生まれになったゆえに不自由を生きるしかなく、運命が決められているようでなんだかせつなく、たまには息抜きに街を歩くぐらいできたらいいのにと思った時、奇抜な想像がふくらみました。

 皇居の地下から黒いチューブのような通路が四方に伸び、お濠の下を通って外につながっていて、護衛もなくこっそり外出できたら……、今はマスクをしていても目立たないし、ジャンパーに野球帽、デニムなど公務の時とまるでちがう姿なら気づかれないかも……。

 新橋駅あたりの人混みをぶらぶらと歩くのはいいものです。ラーメン店の肩が触れ合う狭いカウンター席に座って待つのもわくわくするし、湯気の中のチャーシューをそっと脇に寄せ、黄金色のスープを一口飲んだ瞬間、我を忘れて麺をすするのも人生の喜び。だれでもないひとりの「人間」になって街を歩くのもひとつの自由でしょう。

 空になったどんぶり鉢を置いた時、カウンターの反対側にマスクを外したあの方がおられたらどうすべきか。やはり、夢中で麺をすすっておられるとしたら……。あなたはそっと視線をそらし、店を出なければなりません。見て見ぬふりをする、それが優しさになることもあるのです。=朝日新聞2024年3月4日掲載