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これぞ、生き方としての文学 青来有一

イラスト・竹田明日香

 24歳の頃、地方公務員として働き始め、同時に小説をぽつぽつと書きはじめました。別に将来作家になろうといった考えなどありませんでした。

 大学を卒業して2年ほど宙ぶらりんの無職の果てにようやく就職できて、それ以外の将来などあるはずがありません。子どもの頃から読書好きで、その自然の成り行きで小説を書いてみようと思っただけです。

 卓上小型ワープロが普及し始めた時代でしたが、今のようにインターネットはなく、文芸同人誌に参加したわけでもなかったので、発表の場も仲間もいなかったのですが、別にかまいませんでした。むしろ、小説を書いているなど他人に知られたくはない。だいたい恥ずかしいし、下手に公言したらやめにくくなります。気が向いたら書く、いつやめてもいい、それだけでした。

 就職したら仕事はおもしろく、社会人としても多方面の交流が広がり、私生活も忙しくなります。小説を書くことなどすっかり忘れ、数カ月が過ぎたこともありましたが、なんの焦りもありませんでした。

 最初は書く力がなく、小説を完成することもできないで、短編をひとつ書くのも一苦労でしたが、3年ほど過ぎると、ある程度の長さの小説をなんとか書き終えるぐらいの筆力は身につきました。

     *

 文芸誌の小説新人賞に応募したのも、そんな作品のひとつだったと思います。力試しというか、やはりだれかに読んでもらいたかったというのが本音です。読まれない小説は存在しないといってもいい。その小説の題名とペンネームを、新人賞選考の中間発表の第1次予選通過作品の中に見いだした瞬間、自分の内で「わっ!」となにかが叫び、血が勢いよく全身を巡り、深い喜びが湧いて、高揚感に包まれました。次の新人賞の締め切りに向かって小説を書く日々が始まったのは、その時からです。

 1年に2作程度の新人賞応募でしたが、夜も休日も書くことに時間を費やすようになり、それを義務のように感じ始め、友だちとの飲み会とか旅行など楽しんでいたら「ナマケルナ」という声が聞こえてきます。

 夜も定時に帰宅ができると思い、出先機関に異動の希望をこっそり出し、その出先機関から徒歩1分のワンルームマンションを借りもしました。ひとり暮らしなら自分の時間はすべて小説を書くことに使うことができ、通勤時間も短くして書く時間を増やそうと考えたのです。

 32歳の頃、最終候補の一歩手前の3次予選まで応募作が残り、翌年も2次予選に残りましたが、それっきり予選落ちが続きました。作家でもないのにスランプだけはあるのです。

 書き始めて10年以上が過ぎた35歳のある夜、ひとりちゃぶ台でご飯を食べている時、ふと同級生は結婚し、家庭を持っているのに、自分はワンルームに閉じこもってなにをしているのかと疑いました。幻の世界にしがみついているだけではないか。作家になりたいとか、栄誉や金銭のために小説を書き始めたのではない。がつがつとむさぼり書く必要もなく、そもそもベストセラーなどを書く力量も技量もないことは、骨身にしみてわかっていました。

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 自分の文学があるとしたら「生き方としての文学」だと思い、書くことで自分なりの人生のスタイルができたらそれでいい、仕事をしながらぽつぽつ書いていければいい、そう思ったとき、なにかに夢中でしがみついていた力が抜けていくのを感じました。思いがけない受賞の知らせが届いたのは、翌年、36歳の時です。

 結局、年に一、二作の小説を書きながら定年まで務めました。ある文学賞の選考の時、「作品数の少なさ」を選考委員のベストセラー作家に批判されましたが、生き方としての自分の文学はそこにあり、どうしようもないことでした。=朝日新聞2024年4月8日掲載