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収容所のプルースト [著]ジョゼフ・チャプスキ

[評者]サンキュータツオ(お笑い芸人、日本語学者)

[掲載]2018年03月18日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■絶望乗り越えるための連続講義

 一九四〇年から四一年にかけての冬、旧ソ連グリャーゾヴェツ捕虜収容所。収容されたポーランド人将校と兵士たちは、零下40度にまで達する極寒の環境のなかで労働し、夜は南京虫だらけの寝袋で過ごす生活を送っていた。
 そこで「精神の衰弱と絶望を乗り越え、何もしないで頭脳が錆(さ)びつくのを防ぐために、わたしたちは知的作業に取りかかった」。夜、元修道院の冷え切った食堂で、それぞれの得意分野に関する講義をはじめるのである。食堂にはマルクス、エンゲルス、レーニンの肖像画が掲げられていた。講義の内容は事前にノートにまとめ検閲された。それでもそこには疲れ切った顔のポーランド人たちがつめかけた。知への飢え。画家でもあった将校のチャプスキは、ここでフランス人作家マルセル・プルーストによる『失われた時を求めて』の連続講義を開始した。本書はその講義録である(その場で二名の中尉が書き留めた実物のノートのカラー図版も本書に掲載)。
 原書すらない状態で、記憶だけを頼りに展開されるプルースト論。コルク張りの部屋でひとり、フランスの社交界を舞台に人間模様を活写したプルーストは、自身の死後この作品がこうした環境で語られるとは思っていなかっただろう。しかしたしかにこの時、講義を聴いたポーランド人にとって、時空を超えて現実と冷静に向き合うプルーストは生きる希望であった。55頁(ページ)にサラリと出てくる「みなさん、笑っていますね」という言葉は、生き地獄で知性が勝利した証拠だ。なんと誇り高き人々だろう。その場でガタガタ震えながらも講義を聴いて笑顔になった人たちと握手したくなった。彼らの多くはほどなくして殺された。プルーストを読む前に。
 日本の『失われた時を求めて』は、個人的には現在刊行中の高遠弘美氏による光文社古典新訳文庫版がオススメ。私たちは、これからプルーストを読めるのだ。
    ◇
 Joseph Czapski ポーランドの画家、美術批評家(1896〜1993)。単著の邦訳は、本書が初めて。

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