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ポストコロナ時代、『ジェインズヴィルの悲劇』はもはや「縮図」ではない?

記事:創元社

『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社)
『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社)

GM社最古の工場、突然の幕切れ

 ウィスコンシン州南部、ロック郡の郡庁所在地でもある地方都市ジェインズヴィルは、かつてゼネラルモーターズ社(以下、GM)の企業城下町だった。1919年から操業している自動車組立てプラントはGM工場としては最古のもので、直接雇用はもちろん、関連企業やGM社員向けのサービス業など、世界トップクラスの大企業の工場が町の経済を支えていると言っても過言ではなかった。退屈ではあるが高給な職は魅力的で、求人は数年待ち、コネがなければ入れない狭き門だった。工場労働者は半地下や庭付きの大きな家に住み、複数の車を所有し、安定した生活を送っていた。親子三代にわたって工場に勤務している家庭も少なくなかったのである。しかし、リーマンショックによる「大不況(グレート・リセッション)」の渦中にある2008年12月、GM社はジェインズヴィル工場の閉鎖を決定した。

 経済の根幹を失い、怒涛の苦難を経験することになる市民の姿を6年間にわたって克明に描いたノンフィクション『ジェインズヴィルの悲劇』は、工場最後のシボレー・タホが組立てラインの終点に登場するところから始まる。それを見送った工員たちの大多数は、まだその時点では、閉鎖が一時的なものだと信じていた。なぜならジェインズヴィルは、これまでにも不況や平和的なストライキ、戦争などによる工場閉鎖と短期間での復活とを繰り返していたからだ。しかし実際には、ジェインズヴィルの工場が稼働することは二度となかった。

岐路に立つ人々

 それからというもの、つい先日まで同じ職場で同じ作業に就いていた従業員たちは、過酷な選択を迫られることになる。給料が減らされ、遠方の工場へ単身赴任になったとしてもGMに残るべきか、早期退職金がもらえるうちにGMを辞め、別の仕事を探すべきか。職業訓練校に入ってからも、どこかでましな求人が出れば飛びつくべきか、スキルを身につけて少しでもいい給料を得られる職を探すべきか。

 ある一家では、父親は工場閉鎖のほんの数ヶ月前に定年退職し、潤沢な退職金を得て悠々自適に暮らしている一方で、息子は故郷から300マイル(約480km)も離れたGM工場に単身赴任し、週末になると自宅まで車で往復する「ジェインズヴィル・ジプシー」となってしまった。それでも大幅に減った収入で家計は逼迫し、高校生の娘たちが複数のバイトを掛け持ちして得た収入が家族を助けている。また、職業訓練校を途中退学し労務管理の職を得たものの、大幅な減収に加え季節ごとに収入が安定しない者、好成績で卒業し比較的高収入の職を得たが、悲劇的な結末を迎えてしまう者など、彼らが選択した道の先にはまったく異なる展開が待っているのだ。GMの崩壊以降、市民が受けた打撃は経済的困窮だけでなく、医療問題、家族や友人との違和、精神的ストレスなど、数値で表せない側面もはるかに大きい。

広がる格差

 本書ではGM労働者だけでなく、彼らを取り巻くさまざまな立場の人々にもスポットが当たる。大量の失業者をなんとか職につけようと奔走する職業訓練校の職員、貧困状態にある学生や地域家庭向けに食料・日用品の補助を進める高校教員、患者が極めて厳しい経済状況にあるにもかかわらず、規則上無料診療を断らざるをえず無力感を感じるボランティアスタッフ。ジレンマにさらされながらも地道な支援活動を続ける人々がいる一方で、政治家や財界人たちはジェインズヴィルの経済を回復させようと策を練りはするものの、どこか楽観的である。多くの市民がまだなんの解決も見出せていない状況で、新企業の誘致がほぼ内定し安心した富裕層は悠々とバカンスの予定を組み、晩餐会では「グラスの中身は半分以上残っている」と豪語するさまは、分裂した「2つのジェインズヴィル」の象徴である。そしてこの社会的、経済的格差によるコミュニティの分裂は、ジェインズヴィルのみならず、アメリカ全体の縮図と言えるのである。

 アメリカでは依然として「経済状態や刑事収容に人種上の不均衡がある」ものの以前に比べれば人種間の格差は狭まっている一方、社会的地位の格差はますます拡大している。鋏の刃が開くようにコミュニティは二極化し、社会的地位の低い者はあらゆる機会を奪われ、努力によって上層に上がっていくことが極めて困難となっている。

 その概要は、ロバート・パットナムが『われらの子ども』で緻密な統計分析とモデルケースとなる市民へのインタビューによって明らかにしているが、『ジェインズヴィルの悲劇』では、その分裂の最初の過程がより具体的に、個人ひとりひとりに迫って描かれていると言えるだろう。ジェインズヴィルはよりミクロな規模での「アメリカの縮図」なのだ。

ジェインズヴィルは今も「縮図」か?

 30年以上『ワシントンポスト』に務めたベテラン女性ジャーナリストによる、丹念な調査とインタビュー、そして類まれなストーリーテリングで描かれるジェインズヴィルの6年間は、不謹慎ではあるが小説に思い違えるほどドラマティックである。しかし、登場人物たちはいずれも、今も私たちと同じ世界に生きているのである。

 本書の編集中、ウェブマップを眺めながら、週末をジェインズヴィルで過ごすためインディアナ州フォートウェインからの「夜のドライブ」を共にしたマットは、高校在学中も大学に入ってからもずっとアルバイトを掛け持ちながら学業を続けていたアリッサとケイジアは、彼女らをはじめ多くの生徒の支援を続けていた社会科教師のデリは、今いったいどうしているのだろうか。コロナの流行を機に、アメリカの大きな政治の話ではなく市民生活に直結するニュースが入ってくるたびに、顔も見たこともない彼らのことが思い浮かぶ。

 私のもうひとつの懸念は、ジェインズヴィルの悲劇が、今後も各地で繰り返されるのではないかということである。コロナ流行による世界的な自粛と経済活動の停滞により、2007〜08年のリーマンショック以上の大不況を予測する声もある。コロナの流行が今後終息に向かったとして、その後の世界の状況がどうなっていくのか予想もつかない。ジェインズヴィルがもはや「縮図」ではなくなる可能性もあるだろう。

 すでに現在でも、在宅ワークへの切り替えが進む一方で、医療関係者を筆頭に感染リスクを冒して社会を支えている人々には負担がのしかかっており、また長引く自粛と不十分な補償のために生活を脅かされ、不安を抱えている人も少なくない。さらに政府や企業の対策、自粛に対する個々人の態度についても差異が明確化し、意見を異にする者により不寛容になりつつある。もちろん、コロナ禍とジェインズヴィルの事例とは状況も条件も全く違うので安易に比べることはできないが、こうした差と分裂の有様に、私は既視感と危機感を同時に感じるのである。

 ほとんど現在進行形といってもよいほど直近の過去を扱ったノンフィクションである以上、本書には是非を論じられるような「結末」はなく、困難に直面したとき一市民がどう判断すべきか、正解が載っているわけではない。少なくとも順風満帆な人物はほとんど出てこないので、この時期に読むと、かえって不安を煽ってしまうかもしれない。しかし登場人物はみな、迷いながらも最善と思われる決断をくだし、導かれたそれぞれの生活を懸命に送っている。その姿に、なにがしか感じ取ってもらえることもあるだろう。そしてもし政財界に属する読者がいたなら、今後の施策においてはグラスに残った半分のシャンパンではなく、失われたもう半分の方を常に意識してもらいたいと、切に願っている。

(創元社編集局 小野紗也香)

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