日本人初の建築論文の課題は「日本将来の住宅について」。コンドル先生イチオシは曾禰達蔵 藤森照信『 近代日本の洋風建築』より
記事:筑摩書房
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日本の建築家が建築について書いた最初の文は、明治十二年に提出された工部大学校造家学科の四本の卒業論文である。四本ともテーマは同じで「日本将来の住宅について」論じているから、テーマはコンドル教授から設定されたものであったろう。このテーマ設定はおそらく日本人学生の目には奇妙なものに映ったと思われてならない。
コンドル教授は、日本の住まいの未来を問うているのだが、この未来という言葉の言外には、この先、洋風化をすすめる中で日本の住まい方の伝統をいかにするのか、畳はどうする、木造の問題はどうする、デザインはどうする、という問いが込められていたのは明らかで、学生たちもそのことを論じているのだが、しかし学生にとっては設問の重要性が基本的には分からなかったと思われる。コンドルが設定したテーマの内容は、キーワード化すれば“住宅”と“伝統”の二つだったが、二つとも学生たちにはリアリティが欠けていたし、少なくとも自分たちの立場を考えると重要性は薄いとしか思えなかったにちがいない。理由は簡単で、彼らが工部大学校に官費生として学んでいるのは、明治の新政府が日本の近代化のために必要とする国家的な洋風建築をデザインするためで、住宅とか伝統とかについては国家からどのような期待もかけられていなかった。学生たちは卒業後七年間は国家機関で働き、国の記念碑的な建物を手がけることが入学時に決められていたが、そういう彼らにとって、まず体得しなければならないのはヨーロッパに負けないヨーロッパ建築を作る設計力であり、知っておかなければならない知識は宮殿や劇場や駅舎や官庁建築や高等教育施設についてであった。実際、四人の学生は卒業後、現存する作品でいうなら、辰野金吾は日銀本店と東京駅を、片山東熊は赤坂離宮を、曾禰達蔵は慶應義塾大学図書館を、佐立七次郎は水準原点標庫を手がけている。住宅も伝統も遠い話でしかなかった。
であるのに、コンドル先生がなぜ日本の住まいの将来というテーマを与えたかについては、ひとつの推測として、あまりに洋風と国家的建築に傾斜する学生に対し、全く別の建築の発想と領域があることを教えておきたかった、とも考えられるが、しかしおそらくそうした教育的配慮からではなく、コンドル先生自らの関心からだったと考えられる。
イギリス出身の建築家コンドルがなぜ日本の住まいや伝統の問題に深い関心を持っていたかというと、彼が“日本趣味者”だったからにほかならない。当時、イギリスはビクトリア朝の最盛期がやや過ぎた時期にあたり、成熟そして爛熟の相を示すビクトリア朝の建築界には、遠い過去を夢見る歴史趣味と遥かな国にあこがれる異国趣味が根を張っていた。その異国趣味の最先端の対象だったのが開国後日の浅い日本で、W・バージェス、C・ドレッサーといった成熟期のビクトリア朝建築界の有力建築家が日本趣味のリーダー格をつとめていたが、そうした日本趣味豊かな建築家のもとで学んだのがコンドル青年である。彼は、先輩建築家がロンドンの設計事務所の製図板の上の趣味として楽しんでいたものを人生として実行しようとし、工部大学校からの誘いを機に来日したのだった。彼は、学校で洋風建築を教えるかたわら、日本の伝統建築はむろん、日本画、日本庭園、和服、生花といった日常生活に深く根ざした日本の伝統的な美の領分の探究に精を出している。そうした日本の生活密着型の美の世界に深く魅せられているコンドルにとって、その美を盛る器ともいうべき住宅への関心は強く、かつ建築家として当然の関心も基本にあり、その結果、学生に対し、住まいと伝統という問いを投げかけたにちがいない。もし投げかけた時期がもう二十年遅く明治の後期だったなら、第一世代の辰野金吾に育てられた第二世代の建築家たち、たとえば武田五一などがコンドルの問いかけの意味を正面からとらえて奥深い答えを返したにちがいないが、残念ながら明治十年代の第一世代には、住まいも伝統も思考実験以上の切実さはなかった。
とはいえ、辰野・片山・曾禰・佐立の四名の学生は、コンドルの問いかけに対しそれぞれ個性的な興味深い反応を示している。
まず卒業後にコンドルの後を引き継ぐことを約束された辰野の論文からみると、可もなく不可もないいかにも努力家らしい平均的な論文内容で、それに対してコンドルの評言は、次のとおり。
論文の整理はよくできており、曾禰君のものに大変似ております。地震の考察のようなところは、大変注意深く、かつ上手に数学的に扱われています。論者は、将来の装飾あるいは様式という点をよく考えていますが、しかし、これといった結論あるいは提言に至っておりません。提案の中でも、実地上の部分は実に不足なく完璧です。それらの点は申し分ありません。作文はまあまあでしょう。
異色なのは片山東熊で、先生の問いかけを“それはさておき”的に脇に置いて、構造方式についてなどの自分の関心のあることだけをつづっている。片山は、長州の奇兵隊の出身で、兄が奇兵隊総監の山県有朋の腹心をつとめ、維新後は陸軍の中枢に上っていたことから、自身も山県閥につながっており、卒業後は山県の力をバックに明治の宮廷建築家としてのし上がり、やがて赤坂離宮を手がけることになるが、そうした典型的に明治の新政府向きの人物だった片山にとって、コンドルの設問は脇に置くしかない性格のものだったのだろう。この応答に対し先生の評言は、
論文はすばらしい英語で書かれ、整理の仕方は実にみごとです。しかし、論者は他の論者によって注意深く扱われた多くの重要な問題を無視していますし、将来の改良と変革のためのはっきりした提案には至っておりません。建設面や衛生設備問題の一般的な点はよく考えられていますが、論文は予告された固有の課題よりは、むしろ、建築一般のことになってしまっています。
出来が悪かったのは佐立七次郎で、通常の成績もビリであり、私生活上も問題があり、論文の内容は何を言いたいのかハッキリしないレベルにとどまっている。彼は、社会に出た後、他の三人の同級生の大活躍を横目に、「建設者たちの適者生存的な殺伐な気構えとテンポに、息ぎれしてついて歩けない。なにか体質的なものか気質的なものがあると自ら気づいて」(義理の孫に当たる詩人の金子光晴の解釈)、明治という建設の時代から降りてしまう。その佐立の論文に対しコンドル先生は、
この論文は多くのことを語っていますが、しかし主題に直接関係のない、すなわち西洋の建築様式の歴史や、日本のそれの略説や、かつまた建築家の修養についての長たらしい注意、といったことを多分に含んでおります。このため、論者はこの国の将来の建築を大いに左右する外観、建設方法、気候、地震、実地上の点といった重要なことについては、他の論者のようには十分に扱っておりません。論文は、他の論文のいくつかのようには、作文においても、整理においてもよくはありません。
以上の三名にくらべ段違いの論文を書いたのが曾禰達蔵であった。コンドルの評言も論文の末尾に訳出してあるように、「細心の注意と深い考察によって周到に書かれた論文」と最大限の賛辞を送っている。なぜ彼がすぐれた論文を書けたのかについては、彼の家は唐津藩の江戸詰の家であり、父が大槻磐渓などの江戸の文人たちと友誼をかわす知識人であったという家庭環境にもよるが、それ以上に、彼がその特異な維新体験により明治という新時代に対しきわめて自覚的だったことによると思われる。曾禰は江戸藩邸では小姓の役についており、殿様の小笠原長行が外国奉行だったことから、フランス公使のロッシュなどとの交渉の席に若くして陪席し、時代のうねりを内側から眺める立場にあったし、また維新の戦争の折は、反官軍の立場に立った唐津藩の佐幕派の一員として、彰義隊とともに江戸を敗走して会津に籠り、結局、仲間はほぼ闘死し、自分は小笠原長行の命令によって生き残っている。そうした曾禰にとって、明治という新時代は辰野や片山のようにけっして単純に喜べるものではなく、時代に対し距離をとり意識的であらざるをえなかった。
そうした姿勢は論文にも表われていて、他の三人のようにテーマに直接入るのではなく、まず日本の住まいの歴史を太古から説きはじめ、古代の朝鮮との交流、奈良の都の住まい、室町時代の銀閣寺や金閣寺、さらに千利休の茶室、江戸の町と建物、といったことをひととおり通論した後、はじめて自分たちの時代に論を進めている。こうした記述には、明治の新時代や国家から一定の距離をもって事態を観察する冷静さが感じられる。また、「一国の民族的慣習は、いったんかたちづくられてしまうと、国家が安泰であるかぎり変化することがなくなる」といった明快な発言は同級生の論文には見当たらず、国家が崩壊するのを内側から眺めた者ならではの切実さが感じられる。さらに、つい十数年前から始まった日本とヨーロッパの出会いについての記述も、「西洋建築がわが国に最初に紹介されたのは……厳しい鎖国がとかれ、ひっきりなしに続く諸外国人の到来に覚醒し、外国との親交を開始した時のことである。……日本人は、世界のもっとも文明の進んだ国々に肩を並べようという情熱に燃えて、急速に文明化したが、これと比較できる民族は他にないであろう。この驚くべき状況は、彼らが持っているものでわれわれが必要としたものすべてをまったく自由に導入した結果である」と、明快に説明している。こうした自由な導入の結果、和洋折衷的な擬洋風建築が誕生したことはすでにのべたが、そうした建築についても取り上げ、「新しく粗雑なつくりの風変わりな建築が、日本の住宅建築のなかに現れた。日本の伝統的な建築は、新しく出現したものに比べれば本来優美で住みやすいというのに、これは在来の構造の上に、外国のかたちをかぶせただけのものであった。それはけっして西洋建築の卓越性を理解した上でつくられたのではなく、われわれの度の過ぎた熱情によるものであった」と批判している。
たしかにコンドルの評するように、「細心の注意」によって「周到」に論は開始されているが、さてでは、日本の将来の住宅のあり方は、という問いについての答えはどう出されているのであろうか。
曾禰は、様式と構造とそしてもう一つ床座の問題の三つに分けて論じているが、様式と構造という誰でも考える課題のほかに床座を取り上げたことはさすがといっていいであろう。まず様式については、当時二つの意見が対立していたことを言う。「一方は古典様式が適切であると考え、もう一方はゴシック様式が適当であると確信している」と書いているが、当時こうしたことを論じうる人々は工部大学校のコンドル先生と学生以外にはありえないから、学内で意見がたたかわされていたのであろう。しかし曾禰は古典(クラシック)とゴシックの二大様式のどちらもそれが「外国の様式」であることから不可であるとし、「日本はこれまで述べてきたように、木造建築とそれに付随するさまざまな技術を有する国として知られ、この伝統的な特性を捨て去ることに同意はできない」と、洋風建築の様式をベースとしつつも日本の伝統を加味することを求める。ベースとなるヨーロッパの様式については、イタリアン・ゴシックなどのイタリアのスタイルが気候や風土や趣味のうえからも日本にはいちばん合うとし、その辺をベースに、「伝統様式の利点を保持しつつ、本質的で、優美な、新たな様式を創造したいと考える」。新様式の創造とはいっても基本的には和洋の折衷案が曾禰の様式についての考え方といっていい。
つぎに構造については、木造・石造・煉瓦造の得失を比べ、国産事情も周到におさえたうえで、「木材は腐朽しやすく火災に弱い。石材はほとんどのものが耐火性に欠け、耐火性のものも風化作用を受けやすい。煉瓦は耐火性も耐久性もある材料であり、施工の方法によっては地震による被害も小さくできる。この点から、煉瓦は、わが国将来の住宅建築にもっともふさわしい材料である」と、煉瓦造を良しとする。
つぎに床座の件について、ヨーロッパでは土足で立って家の中で生活し、日本では土足をぬいで床に座して(これを床座という)暮すわけであるが、両者の溝はきわめて大きく、日本の住宅近代化の大問題として知られるが、この難題に対し曾禰は、基本的には畳の上での床座が良いとしながらも、寝室については衛生上からベッドがいいとする。
以上の様式・構造・床座の三点についての結論をまとめて一つの家を作るとすると、まず赤煉瓦を積んで構造とし、外観は和洋折衷で飾り、室内は畳を敷いて和風とし、寝室はベッドの洋風とする、ということになる。もし実際にこのような家が作られたら気味が悪いであろう。さいわい、曾禰の将来予想ははずれ、このような奇妙な和洋折衷住宅は例外的にしか作られていない。
見事に予想ははずれることになるが、曾禰は周到にも論文の末尾で次のように書いている。「厳密にいえば、新しい発見や発明によって、将来の建築にどのような変化が起こるのか、誰にも予測はできず、将来の建築がどれほど崇高、壮大なるものであっても、百年のうちには実用に適さなくなってしまうかもしれない」。
(『近代日本の洋風建築 開化篇』より抜粋)