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仏教におけるあの世とは? 阿満利麿 『「教行信証」入門』より

記事:筑摩書房

original image: イルン 奉 / stock.adobe.com
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「浄土に往生する」といえば、普通には肉体を捨てた死後のことと考えられる。だが、それは、仏教の教えにしたがった考え方ではなく、いわば日常を支配している「自然宗教」的な常識の判断なのである。つまり、「自然宗教」でいう「この世」と「あの世」の区別を仏教にも当てはめて、「浄土」を「あの世」だと思いこんでいるのである。

だが、仏教によれば、大事なことは「生死の世界」、「六道の世界」を脱出して「悟りの世界」に入ることである。そのためには、肉体は煩悩の巣窟として否定的に見られるが、大事なことは「真実の智慧」に目覚めることである。その「智慧」は、精神的に得られるものであって、肉体の亡失は二義的となる。だから、仏教では自殺はなにも解決したことにはならない。「死ねばすべては終わりだ」という考え方も、解決にはならない。

つまり、本願のいわれに納得して「南無阿弥陀仏」と称名するとき、阿弥陀仏は私のなかではたらくのであるから、私は煩悩の身のままで仏道を歩みはじめることになる。もとより、称名の暮らしの第一歩から、そうした安心感が生まれるわけはなく、長い時間が必要になるが、論理的には、称名は阿弥陀仏とともにあることを意味するから、仏になるための道を歩んでいることになる。そのことに気づいたとき、「正定聚」の仲間に入ったということが肯定される。このように「往生」とは、肉体的死を意味するのではなく、仏教の真理に目覚めることを意味する。

くり返せば、「往生」は肉体的な死を媒介にするのではなく、阿弥陀仏の本願に納得した時点で生まれる、いわば新しい生命の自覚ということになるであろう。肉体をもちながら、精神はすでに完全な智慧の開花をめざして歩み始めているのである。大事なことは、その〈仏になるための歩み〉にあるのであり、私の肉体の死は、その歩みのなかで生まれる一つの出来事なのである。

「不断煩悩得涅槃分」

「南無阿弥陀仏」と口に称えることによって、阿弥陀仏が私のなかではたらくようになると、仏教の修行の階梯からいえば、「正定聚」の仲間に入ったという安心が生まれる、といえる。また、煩悩をもつ凡夫という現実の私からいうと、煩悩をもったまま「悟り」への道を歩むということでもある。そのことを示すのが、曇鸞の『往生論註』からのつぎの一文の引用であろう。いわく、

凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生るることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。則ちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや(岩波本、141頁)。

漢文でいえば、「不断煩悩得涅槃分」である。「不断」の「断」は完全になくする、ということではなく「はたらきをとめる」ことだとされている(早島鏡正他『浄土論註』、270頁)。つまり、煩悩のはたらきをとめることなく、「涅槃分」を得る、というのだ。「涅槃」は仏教徒の究極の目標である「悟り」であるが、この言葉に「分」という文字がついている。学者によって意見は分かれるが、「分」には「一部分」の意味と「そのもの」という意味があるという。大方は「涅槃そのもの」という意味だといわれているが、私は「一部分」でもよいのではないか、と考える。「涅槃」そのものを得るのは「浄土」において仏になるときなのであり、凡夫の身では、「涅槃」のにおいをかぐのがせいぜいではないのか。「正定聚」が、つぎは「仏」と決まっているという安心感を意味するのであるとしたら、ここでも「涅槃のにおい」くらいの方が現実味があるように思う。

いずれにしても、名号となっている阿弥陀仏は、その名を称えるものに、仏の心を与えるのであり、その全面開花は、肉体を棄てた浄土においてであるが、称名の功徳は、凡夫にも深い安心感としてはたらく、という確認がこれらの議論のねらいではないか。

では、浄土に生まれて仏になったときには、どのようなはたらきが生まれるのであろうか。凡夫には想像だにできないことであるが、経典や論の助けを借りて、親鸞は一つのイメージを私たちに提供しようとする。

「仏」のイメージ

浄土に生まれると、私たちは仏になるという。では、仏とはどのような存在なのか。だが、凡夫の立場からその答えを見出すことは不可能といわねばならない。にもかかわらず、親鸞は仏とはなにかについて、そのイメージを明らかにしようとつとめる。その理由は、おそらく、念仏という仏道の行き着く先を明らかにすることによって、現世での生き方に希望を与えるためではないか。

もとより、死後のことは所詮、詮索のしようがないことである。しかし、死後の世界についてどのようなイメージを持つかは、現実の生き方に少なからず影響を与える。つまり、人生を死で終わりとするのではなく、死んだ後にまで時間軸を拡大してみることは、生を誕生からはじめるのではなく、誕生以前の前世を想定することと同じように、現実に生じるさまざまな矛盾や不条理を納得するためには有益な視点を提供してくれるのである。それはまさしく「大きな物語」の特徴にほかならない。

では、親鸞は仏について、どのようなイメージをもっていたのであろうか。結論をさきにいっておけば、仏になるとは、一切の人々を仏にならしめるはたらきが自由自在に実践できるようになることなのである。ただし、このようなはたらきができるのは、阿弥陀仏の浄土に生まれることが必須条件となる。阿弥陀仏の国に生まれて、阿弥陀仏を目の当たりに見ることによってはじめて、このようなはたらきが可能となる、という。

大事なことは、阿弥陀仏の国に生まれることが仏になる上では不可欠なのであり、浄土で仏になって、一切の人々を苦しみの世界から救い出して彼らを仏にならしめるはたらきをするのも、阿弥陀仏の力による、ということなのである。

くり返せば、親鸞にとって、仏とは極楽で苦から解放された理想的な暮らしを楽しむという、俗世間で想像されているような要素はまったくなく、仏になるとは一切衆生を仏たらしめるはたらきをする、という一点に尽きている。もっといえば、浄土に生まれて仏になるのは、一切衆生を苦しみの世界から救い出して仏にならしめるというはたらきが自在になるためなのである。

こうしたはたらきを親鸞は曇鸞の言葉を用いて「還相」の活動とよぶ。「還相」の「還」とは、「円をえがいてもとへもどる」、あるいは、「いったものがもとの場所へもどる」(『漢字源』)ということであり、「相」は姿、形のことである。つまり、浄土に往生したものが、仏となって現世に戻ってきて、衆生を仏たらしめようと活動することをいう。

つまり、親鸞にとって、仏になるとは「還相」の活動が自由自在に実現できる、ということなのであり、この「還相」の活動をおいてほかに仏のすがたはないのである。親鸞が、あるいは曇鸞がどうしてこのような「還相」の活動にこだわりつづけたのか、それは一言でいえば、それが仏教だからなのであろう。

(『『教行信証』入門』より抜粋)

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