138億年の歴史を一望する デイヴィッド・クリスチャン『オリジン・ストーリー』より【前編】
記事:筑摩書房
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現代版のオリジン・ストーリー(万物の起源の物語)という発想が関心を集めている。私が興味を持ったきっかけは、1989年にオーストラリアのシドニーにあるマッコーリー大学で初めて教えた万物の歴史についての講座だった。私はその講座を人間の歴史を理解する一つの方法と見ていた。当時、私はロシアとソヴィエト連邦の歴史を教え、研究していた。だが、民族あるいは帝国の歴史(ロシアは民族でも帝国でもあった)を教えると、最も根源的なレベルで人間は競合する部族に分かれているという意識下の(サブリミナル)メッセージを伝えてしまうのではないかと心配だった。核兵器を持つ世界にあって、そんなメッセージは、ためになるのだろうか? キューバ・ミサイル危機のとき、高校生だった私は、人間がこの世の終わりを目前にしていると思ったことを、ありありと覚えている。何もかもが間もなく破壊されようとしていた。そして、「向こう」のソ連にも同じぐらい怖がっている子供たちがいるのだろうかと思ったことも覚えている。なにしろ、彼らも人間なのだから。子供の頃、私はナイジェリアに住んでいた。そのおかげで、人間は単一の途方もなく多様なコミュニティである、という強烈な感覚を植えつけられ、10代になって、イギリスのサウスウェールズにあるアトランティック・カレッジというインターナショナルスクールに行ったとき、その感覚が裏づけられた。
数十年後、本職の歴史家として、人間の統合的な歴史をどう教えるかについて考え始めた。すべての人間が共有する遺産について教え、なおかつ、その物語を語るにあたって、民族の堂々たる歴史には付き物の壮大さや畏敬の念を多少なりとも伝えられるだろうか? 旧石器時代の祖先や新石器時代の農耕民が、歴史研究の対象として圧倒的優位を占めてきた支配者や征服者や皇帝たちと同じぐらい重要な役割を果たしうるような物語を人間は必要としていると、私は確信するようになった。
やがてわかったのだが、これはどれ一つ独創的な考えではなかった。偉大な世界史家のウィリアム・H・マクニールは1986年に、「人間全体としての勝利と苦難」の歴史を書くのが、「我々の時代に歴史研究に従事する者の道義的義務」だと主張している。さらに時代をさかのぼるものの、H・G・ウェルズは同じ思いで、第一次大戦の殺戮に対する応答として人間の歴史を書いた。
私たちは気づいた。今や、全世界における共通の平和以外には平和はありえず、全体の繁栄以外には繁栄はありえないのだ。だが、共通の平和と繁栄は、共通の歴史認識抜きにはありえない。……狭量で、利己的で、相争うナショナリズムの伝統しかなければ、人種や民族は知らず知らず闘争と破壊へと向かう運命にある。
ウェルズには他にも承知していることがあった。すなわち、人間の歴史を教えようと思うなら、おそらく万物の歴史を教える必要がある、ということだ。だからこそ彼の『世界史概観』は宇宙の歴史になったのだ。人間の歴史を理解するには、これほど奇妙な種がどのように進化したかを理解しなくてはならず、それには地球における生命の進化について学ぶ必要があり、それには地球の進化について学ぶ必要があり、それには恒星や惑星の進化について学ぶ必要があり、それには宇宙の進化について知る必要がある。今日では、ウェルズが書いていた頃には考えられなかったほど正確かつ科学的に厳密な形でその物語を語ることができる。
ウェルズはすべてを統合する知識を探し求めていた。さまざまな民族だけではなく学問分野も結びつける知識だ。オリジン・ストーリーはみな、知識を統合する。ナショナリズムの歴史観を綴ったオリジン・ストーリーでさえそうだ。そして、最も雄大なものは、多くの時間スケールの枠を越え、幾重にも重なる解釈とアイデンティティの同心円を貫いて、自己から家族や氏族(クラン)へ、民族、言語集団あるいは宗教へ、人間と生物の巨大な円の数々へ、そして最終的には自分は森羅万象の一部、全宇宙の一部であるという考え方へと人を導いていくことができる。
(『オリジン・ストーリー』より抜粋)
【後編】に続きます。