道徳的混乱を解決してゆく 平尾昌宏『ふだんづかいの倫理学』より
記事:晶文社
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授業で感想を書いてもらうと、特に最初の頃に一番多いのが、「善悪なんて人によって違うし」というヤツです。だから? 「だから、倫理学なんて勉強してもしょうがないし」とか「倫理学なんて意味があるとは思えない」と続くわけです。
幸い、こういう感想は授業が進むに従って減ってくるので(疑問を持っている人が授業に出なくなるからかもしれないけど)、とりあえずこの疑問は放っておいてもいいのですが、こんな風に思っているんなら、そりゃあ倫理学を学ぼうなんて気にならなくて当然。
確かに、同じことに関しても人々の意見は違うことが多いでしょうし、人によって価値観はさまざまです。その通り。オッケー、これは認めましょう。でも、だからどうなんでしょう? だから、倫理学なんて勉強してもしょうがないし、倫理学なんて意味はない?
もちろん、答えは「いいえ」です。っていうか、全く逆です。人によって価値観は違う、だからこそ倫理学が必要だ、というのが正解です。
人によって何を倫理、道徳と考えるかは違っています。でも、それでは困るわけです。だからそれを整理するために倫理学が必要になる。
正確に言うと、「人によって倫理、道徳は違う」だけならまだいいかもしれません。「お互いに考え方が違うね」と言ってニッコリ笑ってサヨナラすれば済む場合もあるからです。困るのは、「違う」が進んで「対立する」になる場合です。「オレとお前のどっちが正しいのか!」なんてことになってしまうと、喧嘩になったり戦争になったりするかもしれません。
例えばことわざというのは道徳的な智恵の宝庫です。でも、「好きこそものの上手なれ」という言葉もあれば、「下手の横好き」という言葉もあります。言ってること全然反対じゃん! 「急いてはことを仕損じる」と「急がば回れ」は同じことを言ってますが、「先手必勝」っていう全く逆の教えもある。「渡る世間に鬼はない」はずなのに、「人を見れば泥棒と思え」。ハー、やれやれ。
子育ての場合でも、「正直が一番」だと子どもに教える親もいれば、「ずる賢く立ち回れ」と教える親もいるかもしれません。これが現実にさまざまな対立を生み、挙げ句の果てはそれで人が殺されたり戦争が起こったりしているわけです。だから、ちゃんと考えて、倫理や道徳を整理しておかないと困ったことになります。そうした整理のために倫理学があるのです。
問題はそれだと困るっていうことです。ここです、ここね。ここが重要。
実際のところ人々の道徳についての考え方はさまざまで、場合によっては対立しています。これは事実です。そして、多くの人は事実そうなんだから(だから仕方ない)、と考えます。なるほど、事実は強い。でも、倫理に関して、つまり価値の問題に関してはちょっと事情が違います。
例えば、(いきなりですが)三角形の内角の和はどう考えても一八〇度です。「そこを何とかなりませんか! 一八〇度じゃ困るんです!」と言っても、何ともなりません。それは嘆いても仕方のない事実ですし、だいいち、「一八〇度じゃ困る」の意味が分からない。「困るんです!」と言われても、どうしようもありませんから、こっちが困ってしまいます。
でも、倫理の場合は、それでは困るというのが大事なのです。ニュースなんかを見ていると、殺人とか強盗とか役人の汚職とか、大統領や首相がウソをつくといったことがよく起こっています。でも、「それは事実だから仕方ないね」と言って済ませてしまうわけにはいきません。それでは困るのです。だって、それは本当だったらあってはならないことだし、努力すればなくせるかもしれないからです。
他に選択肢がないのなら仕方ない。でも、人間のすることには、大部分、他に選択肢があるので、(妙な言い方ですが)仕方なくない。だからこそ、消極的に言うと「このままでは困る」、ちょっと積極的に言えば「よい方に変えられるんだったら変えたい」と我々は考えるわけです。そのために、さまざまに違っていたり、場合によっては対立していたりする道徳、倫理を、出来るだけ整理しなくちゃいけない。これが倫理学の役割なのです。
(『ふだんづかいの倫理学』より抜粋)