教育を「身の丈に合ったもの」にしないために ロバート・D・パットナム『われらの子ども』
記事:創元社
記事:創元社
いきなり他社本の話題で恐縮ですが、『教育格差』(筑摩書房)を刊行された松岡亮二さんが寄稿された記事「萩生田大臣『身の丈』発言を聞いて『教育格差』の研究者が考えたこと」(現代ビジネス、11月3日)は大変勉強になりました。
折りしも英語民間試験問題や文科相の「身の丈」発言など、教育をめぐるテーマが話題になっていた時期のこと。タイムリーに公開された同記事のなかで、松岡さんは量的データに基づきつつ、日本の教育格差の実態について次のように述べます。
曰く、
日本全体を対象とした大規模社会調査のデータを分析すると、出身家庭の経済状態などに恵まれなかった人、地方や郡部の出身者が低い学歴にとどまる傾向が、どの世代・性別でも確認できると。
つまり、生まれた家の経済状況や育った地域といった本人にはどうしようもない初期条件=「生まれ」によって、その人の人生の選択肢や可能性といった「チャンスの幅」が制限されてしまう、それがいまの日本社会というわけですね。
こうした状況は日本だけに留まりません。
今回ご紹介するロバート・D・パットナムの『われらの子ども――米国における機会格差の拡大』は、そういった教育や機会の格差が米国社会を深刻に蝕んでいる現状を明らかにした書籍です。
膨大な量的データに基づいた信頼できる記述に加え、丁寧なインタビュー調査による人々の語りはリーダブルで、硬派な書籍であるにもかかわらず全米でベストセラーになりました。
本書が注目された理由は、それが教育格差の分析だけでなく、米国で台頭する排外的な政治運動の背景にある何かを明らかにしたと読まれたからです。
日本語版刊行の際、現在『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)が大ヒット中のブレイディみかこさんから推薦文をいただけたのですが、その帯文には「分断社会は子どもの貧困から始まる。」とあります。
まさしく、教育格差は私たちの社会全体を蝕む、一大イシューというわけですね。
それでは以下、『われらの子ども』から一部引用しつつ、内容を紹介します。
本書の描写は、著者パットナムの生まれ故郷であるオハイオ州のポートクリントンからはじまります。
パットナムの青春時代(1950年代)、ポートクリントンは、貧富の差はもちろんありましたが、みなが同じ地域で暮らし、基本的に同じ学校に通っていました。
ところが、それから半世紀以上経った2010年代、豊かな人々と貧しい人々はもはや同じ地域には住まないようになりました。
1950年代のポートクリントンにおいては、裕福な子どもも貧しい子どもも互いに近くに住み、一緒に学校に通い、ともに遊びまた祈り、さらには一緒にデートすらしていた。…子ども(とその親)は階級の線を超えて知り合いであり、さらには親友ですらあった。今日ではそれと対照的に、ポートクリントンにおいてもどこにおいても、自身の社会経済的環境の外側の人々と日常生活の中で触れ合う者はますます少なくなっている。(本書48ページ)
つまり、所属する階層ごとに居住地域が分断されてしまっているわけですね。
それが端的にわかるのが、本書33ページの次の図表です。
一目でわかるのが、90年から2008-12年にかけての経済の急激な衰退(色が濃くなっている箇所の増大)と、その中でほぼ唯一その影響を免れているエリー湖岸沿いのカトーバ居住区(色が白い箇所)の存在です。
カトーバ居住区は自然環境に恵まれた地域です。
伝統的経済が崩壊する中、そこに富裕層が集中的に移住したことで、図のような歪な分断が生まれてしまったわけです。
居住地域が階層間で分断されていることは、日常生活で出会う助言者の有無などを通じて、そこで育つ子どもたちの将来の可能性に少なくない影響を及ぼします。
(本記事では省きますが、このあたりの「社会関係資本」や「弱い紐帯」の影響力についての考察は本書の出色の箇所なので、ぜひお手にとってお読みいただければと思います)
もちろんこうした分断は、著者の生まれ故郷に限ったことではありません。
機会の階層間格差。
おそらく本書の一番の読みどころの一つは、上記のような「階層間格差」が、地域・人種・ジェンダーを超えて存在することを実証していく鮮やかな手際にあるのですが、長くなるので本記事では、本書第4章の最後に掲載している以下のグラフをご紹介します。
この図表についてのパットナムの解説は次のとおり。
今日では、好成績の金持ちの子どもが大学を卒業する可能性は非常に高いが(74%)、低成績の貧しい子どもがそうなることはほとんどない(3%)。中くらいの出来の生徒が大学を卒業する可能性は、裕福な家族の出身であれば(51%)、裕福さで劣る家族出身の者(8%)の六倍大きい。さらに衝撃的なのは、好成績の貧しい子どもが大卒学位を取得できる可能性(29%)は、低成績の金持ちの子ども(30%)より現在ではわずかに低くなってしまっているということである。(本書213ページ)
つまり、素質や努力がどれほど報われるかは「どの家に生まれたか」によってある程度決まってしまう、そうした残酷な現状が、膨大なデータによって明らかにされていくわけです。
かつては出自にかかわらず、才能と努力とで「アメリカンドリーム」を掴めるはずだった自由の国は、居住地域の分断による階層の固定化により、貧しい子供はその環境から抜け出せない、時にはその手段や選択肢の存在すら知らない状況を生み出してしまっているのです。
機会の格差の問題は、多様な才能が社会で活かされる可能性を奪うことにあります。
それは経済的な損失をもたらすだけでなく、それらの才能が社会的にふさわしい地位につくことを妨げることで、政治的な影響力を偏ったものにしてしまうでしょう。
自己責任論に安住し、教育格差を放置することは、めぐりめぐって私たちのデモクラシーをゆがめることになるわけです。
パットナムは、こうした分断を乗り越えるために、「教育への投資は将来の経済成長にも繋がる」という実利的な論拠を提示するとともに、それ以上に、子どもたちの格差の問題は私たち社会全体の問題である、という力強いメッセージを述べて、本書の議論を締めくくります。
わが国の歴史の中で、社会経済的格差の拡大によってわれらの経済、われらの民主主義、そしてわれらの価値観が脅かされたのは初めてではない。こういった難題を成功裏に克服して機会の復活を目指すべく現在まで追求されてきた各個別の対応は、具体的にはさまざまに異なっているが、それら全ての根底にあるのは他人の子どもに対する投資への責任感だった。そして、そのような責任感の根底にあるのは、これらの子どももまたわれらの子どもなのだ、という根深い感覚だった。…今日のアメリカでは、…こういった子どもに対する自身の責任を認めなければならない。アメリカの貧しい子どもも、確かにわれわれに属しているのであり、われわれも間違いなく彼らに属しているのだから。彼らは、われらの子どもなのだ。(本書290-291ページ)
もちろんこれは米国だけの問題ではありません。
子どもたちの教育は、身の丈にあったものにすべきなのか、それとも「私たちの問題」として引き受けるべきなのか。
本書を読むと、そうした問いが切実なものとして迫ってくるはずです。