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日本人は宗教に「効能」を求めている?! 松山洋平『イスラーム思想を読みとく』より

記事:筑摩書房

designprojects / stock.adobe.com
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 多くの日本人がイスラームを「戒律の宗教」のように捉えています。例外はあるでしょうが、そのようなイメージを持っている人の数は、おそらく少数派ではないでしょう。

 では、イスラームは法を持つ宗教であるため、特別そのように捉えられてしまっているのでしょうか。たしかに、そういう要素は大きいとは思います。しかし、よくよく考えてみると、原因はそれだけではないような気もします。

 少なからぬ割合の日本人は、イスラームのみならず、そもそも、宗教全般に対してそのような態度で向き合っているとは言えないでしょうか?

 つまり、多くの日本人は、宗教に対して、心のなかで「信じるか/信じないか」という態度で向き合うもの──つまり、「信条の体系」──としてではなく、何らかの効能を求め、術として実践するもの──つまり、「術の体系」──として接してはいないでしょうか?

 このように言うと、「そんなことはない。日本人は宗教において戒律や行為を重視しない。日本人が宗教において大切にするのは“心”だ」と反論する人は多いでしょう。しかし、はたして本当にそうでしょうか? あるいは、こう言ってもいいでしょう。「心を大切にする」という言葉で指し示されていることは、いったいどのようなことでしょうか?

 読者のなかの多くは、新年になると神社に初詣に行くと思います。新年だけではなく、安産祈願、合格祈願、恋愛成就祈願など、そのときどきの願い事の種類に応じて、その願い事をかなえてくれるとされる特定の神社にお参りに行ったことがある人も少なくないでしょう。そうした神社には、その特定の願い事・必要に対して特に力を発揮する「神」が祭られていると言われます。また、人が亡くなれば、多くの場合は仏教の僧侶を呼んで葬式をおこない、「成仏」を祈願します。その他、死者のためにもろもろの法事をおこない、墓の前で手を合わせ、「仏となった」先祖に話しかけたり、願い事をしたりします。この他にも、日本人はじつにさまざまな宗教的な行事や行為に、一年をとおして関わっています。

 一部の人は、神社に祭られた神の存在や、仏教の「極楽」の存在など、自分がかかわる宗教儀礼の意味や、その世界観を本当に信じていると思います。つまり、それを事実・真実として捉えている、つまり、信仰している人です。

 しかし、そうではない人のほうが多いのではないでしょうか。大多数の人は、そういった神々の存在や、仏教で説かれる成仏や極楽を、「本当に信じている」わけではないでしょう。「そうすることが習慣だから」、「効果があるから」、「やらないと悪いことが起こるから」という理由で、さまざまな宗教儀礼に従事しています。

 もちろん、「お守り」などの効能を本当に信じている人もいるでしょう。しかし、お守りというアイテムの背後にある、仏教なり神道なりの世界観を信じているのかと言えば、信じていない人がほとんどです。信じていないけれど、とにかく何となく効能を実感できるから実践する。「術」としての効能を信用し、宗教的な実践をする。そういう人も多いような気がします。

 そういった人たちは、「それが事実・真実だと本当に信じているのですか?」とあらためて聞かれたら、当惑し、言葉に詰まってしまいます。それは、そういった宗教行為を、「事実・真実として信じるか/信じないか」というスタンスで向き合うようなものとは、そもそも考えていないからです。「信じるか/信じないか」という問題ではなく、とにかく、やることに義務感を感じている、あるいは、何らかの「効能」が発揮されるのを期待している。そういう人は多いでしょう。

 これは、漠然と宗教に接している、いわゆる「宗教に無頓着な」一般的な日本人だけにあてはまる話ではありません。意識的に、何か「特定の宗教」に属している人のなかにも、つぎのように考える人がいます。

 「自分が帰属している教団が説いている世界観、たとえば、神様だとか仏様だとか、霊的な世界については、ほんとうかどうかはよくわからない。それ以前に、よく知らないし、あまり考えない。けれど、教団の行事に参加していると、とても安らかな気持ちになれる。心が満たされる。だから、この宗教に参加している」

 「この宗教の人たちは、みんなとても優しくて、人格者だ。こんな人たちは会ったことがない。みんな目が輝いている。みんなといると、とても幸せだ。この幸せな気持ちをいつも味わっていたいし、私も皆のようになりたい。だから、私もこの宗教に入っている」

 こういった感覚は、自分が帰属する宗教を、「教義」「信条」の真実性とは関係のない要素で選択するものです。こうした傾向を持つ人は、自分が参加する宗教儀礼を執りおこなう宗教なり教団なりが提起する世界観が、事実・真実であるか否かを突き詰めて考えません。彼らがその宗教の信者である理由は、その宗教の世界観を信じているからではなく、その宗教が提示する宗教行事への参加をとおして、何かを得ることができる、つまり、何らかの「効能」を感じることができるからです。その「術」としての「効能」の高さ、信憑性を信頼し、「信者となっている」と言えます。

 その「効能」は、商売繁盛や病気の治癒といった物質的なものに限られません。むしろ、「心の豊かさ」「魂の平安」のようなものを求める人のほうが多いでしょう。「日本人が宗教において大切にするのは“心”だ」と言ったときに意図されるのは、こういったことです。それは、「心のなかで“信仰”することが重視される」ということとはまったく意味合いが異なります。

 こういった態度で宗教に向き合う人たちは、日本人のなかに非常に多く観察されます。彼らにとっては、或る宗教の「信者」とは、その宗教に形式的に帰属している人、あるいは、その宗教の宗教行為を実践している人のことであって、その宗教の提示する世界観を事実として信じ、受け入れている人のことではかならずしもありません。

 「その宗教の信者であるけれども、その宗教の世界観は信じていない」ということもあり得るわけです。

 誤解を招かないように付け加えておけば、私は、そういった感覚が「良い」とか「悪い」とか言いたいわけではありません。私が注意を促したいのは、日本の少なからぬ人は、宗教を「信条の体系」としてではなく「術の体系として捉えるという事実です。それは、宗教の理解において、内面の信仰よりも外的な実践を非常に重視するということにつながります。

 そして、そういう傾向を持つ人が、キリスト教やイスラームのように、心のなかで何を信仰するのかが救済にかかわる本質的な問題となるたぐいの宗教を、自分の宗教観から何気なく観察してしまうと、その宗教にとって重要な点が何なのかをすっかり見落としてしまう可能性があるということなのです。

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