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「理想の死」とは、家族に囲まれて死ぬことではない。 『看護師僧侶の妙憂さん! 「いい死に方」ってなんですか?』より

記事:大和書房

『看護師僧侶の妙憂さん! 「いい死に方」ってなんですか?』(大和書房)
『看護師僧侶の妙憂さん! 「いい死に方」ってなんですか?』(大和書房)

 最愛の夫を自宅で看取った経験を持ち、“看護師”と“僧侶”という二つの肩書きでスピリチュアルケアを行う著者のもとには「死」に関するさまざまな質問が寄せられる。今、20代から90代までのいろんな人が、いろんな理由で、いろんな見方で「死」について考えているという。

 日常から死が切り離された現代において、突然やってくる「看取り」の機会や「治療の選択」に戸惑う人は少なくない。パートナーや家族に先立たれた人、終末期の患者や家族、さらには死を意識していない若い人にとっても、避けることのできない「死」と向き合うことは、今生きている「生」を充実させるためにも必要なことだと語る。

(c)米村知倫
(c)米村知倫

Q.最期はやっぱり、家族みんなに囲まれて亡くなるのが理想なのでしょうか?

A. 家族に囲まれて死ぬのがベストだと思い込むと、苦しくなりませんか。

 「私は、ひとりで逝くということを気にしすぎることはないと思っています。

 『最後はみんなに囲まれて逝きたい』『息を引き取るときは絶対にそばにいてあげたい』とこだわる方は多いでしょう。

 けれども、『おひとりさまで孤独死』って、そんなにダメなことですか?

 息を引き取るのを見ていなかったら、『うまく送ってあげられなかった』ということなのでしょうか。

 2018年に女優の樹木希林さんが亡くなられてから、『私も樹木希林さんみたいな最期を迎えたい』『どうすればできるのか』と相談されることが多くなりました。

 樹木希林さんは長く入院されていましたが、最期は家に帰りたいという樹木さんの願いをご家族が叶えて、24時間看護の体制を整えて家に迎え、亡くなられたそうです。息を引き取るときはご家族に囲まれ、ご主人とも電話でつながり、大団円で静かに息を引き取られたと聞きます。ですから『最期は自宅に帰り、家族に囲まれて死ねるなんて幸せだわ』と憧れる方が多いのです。

 もちろん樹木希林さんは、大変素晴らしい最期をお迎えになったと思います。けれども、誰もが樹木さんと同じようにするべきだと思ったら苦しくなります。

 樹木さんに学ばせていただくところはたくさんあります。達観した『生き方』はぜひとも真似したい。しかし、最後の最後、逝くときに『みんなに見守られて』、あるいは見送るほうも『息を引き取る時はそばにいてあげて』ということには、そんなにこだわらなくてもいいのではないかなと私は思います。

 たとえば、病院のように医師や看護師、そのほか働いている人がたくさんいる場所であっても、結局息を引き取ったときは病室におひとりだった、というケースは少なくありません。つまり、どんなに人がいても、そのときに逝く方のそばにいたのはモニターだけだったということです。

 家で看取ろうという場合でも、看病されている方がちょっとだけ休もうと横になって、目を覚ましてご本人のところに戻ったら呼吸が止まっていたということだって、しばしばあります。

 どんな形で最後の息を閉じるかは、本当にいろいろです。

 いいじゃないですか。孤独死も。ひとりで立派に終うなんて、むしろ“孤高死”と言ってさしあげたい。

 そもそも、人間というのは孤独なものなのですからね」

Q.そもそも私たちは、死ぬために生きているんでしょうか?

A. 人が生きることは、「飛行機が飛ぶこと」に似ています。

 「この世で生きることは“飛行機が飛ぶこと”と同じ、と考えてみたりします。生まれるときが離陸。そのあとはよたよたしてもなんとか飛んでいきます。死ぬときが着地です。飛行機の操縦は“離陸”と“着陸”が難しいというのも、人の人生の中で“出産”と“看取り”が大変なのと重なるように思います。

 飛行機が飛んでいる最中には、雨や雲の中をくぐることもあれば、雷も鳴るし、乱気流に巻き込まれることもある。かと思えば、月の光に照らされたり、美しい彩雲を見ることもある。人生にもいろいろなことがあります。

 そして、ひとりの人間が一機の飛行機だから、誰かと同乗することはできない。隣に並んで飛ぶことはできても、重なって、融け合って、一つの機体になることはできないのです。

 つまり人間は、根本的にどうしようもなく『独り』なのだということです。

 真言宗の開祖である弘法大師空海が残した、こんな言葉があります。

 “阿字の子が 阿字のふるさと たちいでて またたち帰る 阿字のふるさと”

 阿字とは梵字の最初の言葉であり、すべての大本を表します。つまり、誰もが独りで生まれ出てきて、また独りで大本へ帰っていくのだという意味です。

 飛んでいる飛行機は、いつかは着地しなくてはなりません。『当機は着陸態勢に入りました』とアナウンスが流れれば、だんだんと高度を下げて着地する。

 つまり、これが死ぬということ、とたとえて考えたりします。

 ときに、空中分解して落ちてしまうようなこともあれば、急降下することもあり、必ずしも穏やかなソフトランディングばかりではないところが、死に方のあれこれなのかなという気がしています。

 さて、みなさんは離陸した飛行機の中で、『この飛行機は無事に着地するのだろうか』ということばかりを心配して、延々考え込んでしまっているなんてことがありますか?  よっぽどなことがない限り、それはないでしょう。

 だいたいは映画を見たり、おしゃべりをしたり、本を読んだり、食事をしたり、うたた寝をしたりしてフライト時間を楽しんでいるはずです。人生も同じです。着地のこと、つまり死のことばかりを考えて過ごしている人なんて、そうそういません。

 飛び立ってしまった限りは、絶対にいつか着地しなくてはならず、永遠に飛び続けることは不可能です。着地することは120%の決定事項ですが、それをいつも考えていなきゃいけないとしたら、ちっとも楽しくないですよね。一度くらいは着地のときのシミュレーションをしておくことが必要ですけれど、あとはもう、フライト時間を思う存分楽しんでしまいましょう。

 ちなみに、着地したあとのことはどんなふうに考えていらっしゃいますか?

 ご搭乗の飛行機はハワイ行きだったり、ロサンゼルス行きだったりするわけですよね。現地到着後は、ビーチでのんびり? おいしいごちそうに舌鼓? いろんなプランが待っているのでしょうね。

 人生で言うなれば、極楽浄土か、輪廻転生か、はたまた大いなるものとの融合か……。どれにしようかなあ」

(c)米村知倫
(c)米村知倫

 「死を考える意味とは、死を怖がらないためではない」という。むしろ、「怖い」ものは「怖い」ままに。「よくわからない」ものは「よくわからない」ままにしておく。その「力」を養うために、「死」を考えるのだという。

 現在の生をより輝かせるためにも、一度立ち止まって死を見つめる時間は、私たちにとって必要なのかもしれない。

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